手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

大峯 の検索結果:

聖教よみの聖教よまず

…りをしくおもへども 大峯 顕 百華苑 P7、P8より】 聖教よみの聖教よまず(蓮如上人御一代記聞書第95条)という言葉があります。自分でお聖教を読んでいても「信心なし」に読んでいるだけでは、本当にお聖教を読んでいるとはいえない、ということです。言葉の上辺だけを捉えるのではなく言葉の行間を読む、ということが非常に大事ですね。『南無阿弥陀仏』という言葉においても然りです。 南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされて拝読するお聖教はこれまた格別です。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏…

称名念仏の源泉

…さるのです。つまり如来様の名乗りの反響です。南無阿弥陀仏と向こうから言われる、その声が私に当たって反射するこだまです。 【『歎異抄』第七条・第八条 無礙の一道 大峯 顕 百華苑 P69、P70より】 南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまとわたしを繋げる言葉といってもよいでしょう。 南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまのお慈悲が顕在化されたお言葉なのです。 その温もりを感じてお念仏を称える、報恩感謝の南無阿弥陀仏なのでした。 仏法ひろまれ 響け 届け・・・・・・ おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

竹の幹の中にいる虫

…。われわれ凡夫は永遠に竹幹の中でもがいている一匹の虫です。その虫を横へ出すという、すばらしい着想をされたのが因位の阿弥陀様です。 【『歎異抄』第七条・第八条 無礙の一道 大峯 顕 百華苑 P46、P47より】 非常に分かり易いたとえです。 私のことを、竹幹の中でもがいている一匹の虫、と表現されています。 阿弥陀さまは、そんな私のことを見透かされて、南無阿弥陀仏を用意されたのでした。 私はといいますと、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけでした。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

念仏の人

…第八条 無礙の一道 大峯 顕 百華苑 P23、P24より】 ここでもありますように、 「要するに、煩悩具足の凡夫は如来にまかせて死ぬだけでよろしい」とあります。 つまり、私はといいますと阿弥陀さまにおまかせ、ただそれだけなのでした。阿弥陀さまのお救いの前では、「私の・・・」は無用なのです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 http://www.sozailab.jp/sozai/detail/14642/ 捕らぬ狸の皮算用 【読み】とらぬたぬきのかわざんよう 【意味】捕ら…

根本問題の解決は仏法に説かれてある

…第八条 無礙の一道 大峯 顕 百華苑 P4、P5より】 いま・ここで・私が生かされていることの謎は、すでにお釈迦さまによって説かれています。 その謎に目覚めるということ、つまり、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くことが非常に大事になってきます。 いま・ここで・わたしが生きているという根本問題は仏法に説かれてある、それだけ分かっただけでも頼もしいですね。阿弥陀さまをはじめ、お釈迦さま、歴代の先人方の存在なくして、いまの私はありません。 「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を…

お念仏を称えるのは至って自然な流れ

… 弟子一人ももたず 大峯 顕 百華苑 P36、P37より】 南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている私は、そのはたらきに気付かせて頂くだけだったのでした。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた証拠が、私の口からこぼれる南無阿弥陀仏のお念仏です。いうならば、南無阿弥陀仏を通して、阿弥陀さまと会話をしているといってよいでしょう。南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまと私の共通語です〜 いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、大事なところです。 仏法ひろまれ 響け …

力(りき)む人

…・第五条 大慈悲心 大峯 顕 百華苑 P49、P50より】 南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされていることを、敢えて確かめる必要もなく、ただ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけです。 (私は阿弥陀さまに救われていると)固く信じて疑わない、とか、(私は阿弥陀さまに救われていると)確信する、と力む背景には「不安」があるのでしょう。また、そういっているうちは、阿弥陀さまの救いに「疑い」をもっている、ともいえます。「仏さまはウソを言われない」とありますが、全くもって頼もしいことです。 …

阿弥陀さまの願い

…仏『歎異抄』第三条 大峯 顕 百華苑 P58〜P60より】 「仏の教えを聞くと何と不思議なことに、これが信じさせていただけるようになるのです」 ⇒ホント、不思議なものです。阿弥陀さまのなせる業(わざ)です。 南無阿弥陀仏。 「自分自身の中にあるとは思えない願生心が、如来様によって目覚めさせられる」 ⇒浄土に生まれたい、という私の願いまでも含め、すべて阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきによるものです。 南無阿弥陀仏。 「われわれの命はもともと、この尊い誓願の中に生かされている…

生死問題

…仏『歎異抄第三条』 大峯 顕 百華苑 P6,P7より】 生死問題、言い換えますと「いま」の問題です。 死は「やがて」訪れますが、突き詰めていいますと「今」です。仏教では生死一如といわれます。今一度、わたしの命について、じっくりと考えてみたいものです。 ここで、 「仏に成られた釈尊が、自力では仏に成れないわれわれ衆生が仏に成れる道を弥陀の本願の中に発見して下さったわけです」とありますが、 お釈迦さまの存在がなかったら、と思いますとゾッとします。 阿弥陀さまからいえば、我々の生死…

本当の命のよろこび

…仰せ『歎異抄』第二条 大峯 顕 百華苑 P56〜P57より】 本当の命のよろこびは、 「如来様に助けていただくことに何の間違いもないということを、自分のこの命の上に感じさせていただく」こと以外にありません。 つまり、 「わたしが、いま、ここで、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせていただく」こと以外にない、ということです。 なにかの機会に、ふと、「私のいのち」の喜びを感じることができる人生は素晴らしいですね。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 雲の切れ間から差す光

一つの課題

…せ『歎異抄』第二条 大峯 顕 百華苑 P29〜P31より】 マッチ棒が燃え尽きるまでの猶予時間に何をするか、 健康、長生き、金儲け、仕事、出世、結婚、子育て・・・・・・・ これらのいずれも死をもって強制終了です。ここでは、これらのものは儚い主観的な夢である、と述べられています。 「われわれのこの命は一つの課題を持っている」 その課題とは、ズバリ、 南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされ南無阿弥陀仏の身になる、ことです。 生死は表裏一体です。いまが大事です。 おかげさまで 今日も …

ただおまかせ

… 『歎異抄』第一条 大峯 顕 百華苑 P6〜P8より】 言葉を文字通りに捉えますと、ときには大きな誤解を生みます。歎異抄も然りです。 「念仏は、まことに浄土に生るるたねにやはんべらん、また地獄におつるべき業にてやはんべらん、総じてもって存知せざるなり。」のお言葉には、「阿弥陀さまにただおまかせ、それ以外になにがあろうか!」という強い意思が顕著にあらわされています。 また、 「私の教えの通りやったら助かり、幸せになるんだ、と言うのがたいていの教祖たちでしょう。」と、教祖の定義も…

仏さまの心

…います。自分ではそのつもりはなかったのに、ある日、私の口から南無阿弥陀仏が出た。信心獲得の消息を実に的確に語っています。御文章には、「何のやうもなく」という言葉が出てきますが、これが「当たる」と同じですね。理由は詮索しないのです。なぜ阿弥陀さまが私を救ってくださるのかと、どれだけ考えたところで私は助かりません。 【かならず煩悩のこほりとけ 大峯 顕 響流書房 より】 阿弥陀さまに、ただおまかせ、ですね。 「ただおまかせ」に理屈はありません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

命がある間に (このいま)

…が先に喚んでくださっているのであって、こちらからの発信ではありません。向こうから来た声が私に当たると、反射して私の声になります。それが私の口から出る南無阿弥陀仏です。 【かならず煩悩のこほりとけ 大峯 顕 響流書房 より】 阿弥陀さまの喚び声、 つまり、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらき、に気付かせて頂きたい、ものです。 そのはたらきに気付かされますと、自ずとお念仏(南無阿弥陀仏)がこぼれます。 わたしは、一貫して「受け手」です。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 溶ける氷

南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている

…と浄土の教え 下巻 大峯 顕 響流書房より】 清沢満之(きよざわまんし) 1863年8月10日(文久3年6月26日)−1903年(明治36年6月6日) 日本の明治期に活躍した真宗大谷派僧侶、哲学者・宗教家。 旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。 鈴木大拙(すずき だいせつ) ※本名:貞太郎(ていたろう) 1870年11月11日(明治3年10月18日)−1966年(昭和41年7月12日) 禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめ…

私が思う 思わない、は関係ありません

…と浄土の教え(上) 大峯 顕 響流書房 より】 (因幡の)源佐さんは、 「源佐さん、餅を蒸しますが、ぜんざいがよいか、それとも味噌煮にしょうか、なにがえゝな」と尋ねられたところ、 「おらか、おらにや、たゝ蒸してごしなはらやえゝだがやあ。餅にや餅のえゝ味があるけんのう」と返答されました。 言わんとしていることは、 「餅は餅そのものの味があるので、あんこや味噌といった(余計なものを)付け加える必要はありませんよ」ということです。 ここでは、餅をもち出して(親父ギャグではありません…

宗教と言葉の本質

大峯 師(1) 人間にとっての言葉は、魚にとっての水のようなもの。魚は水がなければ死ぬ。それほど切実だから、かえって見えない。宗教も突き詰めて言えば、本当の言葉に生かされているという感覚のことだと思う。浄土真宗では、名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」自体が仏です。仏が語る言葉はお経、仏である言葉が名号です。 【語句】 南無阿弥陀仏:阿弥陀(あみだ)仏に帰依しますとの意味 南無阿弥陀仏という言葉は、単なる概念や記号ではありません。 このいま・ここで・わたしに、はたらいているおは…

最後に届いた手紙 (池田晶子)

…月3日 池田 晶子 大峯 顕 先生 生きたいということは自分の執着だと思って来たのは思いちがいであって、本当は生命そのものの意志だったことに気づいたという池田さんの言葉は、私を大いに喜ばせた。生きたいということは、個人のたんなる主観的願望などではない。この生命そのものの願いに逆らえる存在は一つもない。明るい孤独な思惟の中で池田晶子の長い旋回はついにその最終的な局面に入っていたに違いない。「生きること死ぬことは他力による」。彼女が連載する「週刊新潮」にこの言葉を見つけたのは、そ…

南無阿弥陀仏

…県盛岡市)にて聴聞(大峯顕 師)しました。約2年ぶりです(早朝6時〜8時、午前10時〜12時)。 大雨でしたが、こころは日本晴れです(笑)。聴聞はこころの清涼剤ですね〜。 「南無阿弥陀仏に生かされる」という講題でのお話しでした。 先日の吉崎(福井県)での法話の模様を交えながら、「信心について」「蓮如上人の御一代記聞書および御文章」「観無量寿経から王妃・韋提希の救い」「観無量寿経における善導大師の解釈」「哲学者 池田晶子の回想」「南無阿弥陀仏に生かされている」等についてお話し頂…

阿弥陀さまによって自覚させられる

…【本当の命を生きる 大峯 顕 法話集2 響流書房[Kindle版] 無明の夜が明ける より】 自覚するのは私(自分)ですが、 そうなさせしめるのは『阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらき』です。 ですので、 敢えて「自覚」という言葉(表現)をもちだすならば、 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきによって、私が自覚させられる、 とより丁寧に言い回した方がよいでしょう。誤解を招きません。 個人的には、「気付かされた」「知らされた」という表現が好きです。 あくまでも、主語は阿弥陀さま…

阿弥陀さまのお育てにあずかる

…ますから自由になるのです。 【 回向される南無阿弥陀仏 大峯 顕 法話集1 生きる苦しみより 響流書房[Kindle版] 】 ここでも言われていますように、 南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされますと、 肩の荷がおります。肩肘を張って生きていく必要はありません。 日々、報恩感謝の南無阿弥陀仏(お念仏)です。 「煩悩があってもさわりにならないという不思議です」とあります。煩悩は、ときに、慶び・楽しみのタネにもなります。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のなせる業です。 今日も南無阿弥陀仏。

すでに決着はついている

大峯 だから阿弥陀さまも法蔵菩薩のとき、最初に何をしたかというと、考えたんですね。どうしたら、十方の衆生を救えるかを考えに考えたわけです。五劫の思惟(ごこうのしゆい)、それから永劫(えいごう)の修行です。五劫という無限の時間の思惟が仏さまにも必要だったんです。可能なことを可能にするなら簡単だけど、不可能なことを可能にする方法、仏に成れっこない衆生を仏にする方法を考えつくには、そりゃ時間は要りますよ。 池田 宇宙大の思惟ですね。でもそこから「よっこいしょ」と身を起こしたというこ…

大安心  〜不思議に肩が軽くなる〜

…浄土和讃を読む 下 大峯 顕 本願寺出版社 P319〜P321より】 臭い物に蓋をしろ的発想では、なんの解決にもなりません。 いま・わたしが・ここに、生きている現実にもっと目を向けていきたいものです。 このシリーズ(三帖和讃講話:大峯 師)は、今回の生命還流(6冊目)をもって完了です。これ程までに、『浄土真宗の信心』について非常に分かりやすく書かれ、散りばめられた書籍はあまりないように思います。 拝読する方の視点にも依りますが、(少なくとも私においては)非常に共感できるところ…

語られているのは仏さま

…浄土和讃を読む 下 大峯 顕 本願寺出版社 P148より】 早いもので、この「手品師ブログ」をはじめて5年目になりました。 たまに、自分で書いたブログ(内容)を読み返すことがあります。自分で書いておきながら「ありがたいなぁ〜」と思うことが多々あります。 それは、『語られているのは仏さまの言葉であるから』なのですね。 (ブログを続けているのは)多くの方に南無阿弥陀仏に出遇って欲しい!という思いより、 自分自身で楽しんでいる、といった方がよいようです。 今日も南無阿弥陀仏。 真宗…

阿弥陀さまと歩む人生

…はそのことをすぐお知りになる、他の人は知らんけどね。ここにいるどなたかに信心がおこったら、隣の人は知らない、が如来様はすぐわかる、そのことをお知りになって、八万四千の光明をはなってその人を包む、と御文章にあります。こころが通い合う信心、わたしの心を知ってくれた、と光をはなって喜ばれる。 【 大峯 顕 師 法話より 】 ※りんさんより紹介 「阿弥陀さまと歩む人生」というタイトルにさせて頂きました。 阿弥陀さまと一緒に歩む人生ほど仕合わせな人生はありません。 今日も南無阿弥陀仏。

阿弥陀さまとつながる道

…ても、阿弥陀さまとはお遇いできないでしょう。われわれが六字の名号を聞くところに、いつも阿弥陀さまはいらっしゃるのです。 【生命還流 浄土和讃を読む 下 大峯 顕 本願寺出版社 P114より】 「一日中阿弥陀さまは尊い方だと思い続ける」では、阿弥陀さまとわたしの間に距離があります。 一心同体南無阿弥陀仏の身にならせて頂きたいものですね。 「南無阿弥陀仏」を通して、阿弥陀さまと対話できるのです。 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀さまと私の共通語です。 今日も阿弥陀さまとなもあみだぶつ。

念仏がこだまする

…ねばなりません。そうすれば、自然にお念仏が出てくるのです。本当に助けてもらったら、南無阿弥陀仏が出て来ます。私の称名は、私を招喚する阿弥陀さまの声のこだまだからです。 【生命還流 浄土和讃を読む 下 大峯 顕 本願寺出版社 P120〜P122より】 「私の称名は、私を招喚する阿弥陀さまの声のこだまだからです」 素晴らしい表現ですね。 「南無阿弥陀仏」を通して、阿弥陀さまとわたしの対話が成立しているということです。 引き続き、遠慮なしにお念仏を称えます。 なまんだぶ なまんだぶ

たすけたまへ

…浄土和讃を読む 下 大峯 顕 本願寺出版社 P68より】 私は、(阿弥陀さまの)救済の真っ只中にいるのです。 すでに、南無阿弥陀仏のおはたらきのなかにいる私は ただお念仏を称えさせて頂くだけです。 それ以外になにもありません。 南無阿弥陀仏の人生、この上ない仕合わせです。 今日も南無阿弥陀仏。 たすけたまえ(たすけたまへ) 一般的には「おたすけください」という意味であるが、浄土真宗では、衆生が阿弥陀仏に向かって救いを請求(しょうぐ)する意ではなく、許諾(こだく)(聞き入れて承…

生かされて生きている

…、自分の所有物ではありません。自分の所有物であれば、自分の思いのままにコントロールできるはずです。残念ながらそれは叶いません。誰しもいつかは死んでいかねばなりません。いつ、どんなかたちで、死んでいくのかも分かりません。 突き詰めていえば、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされているのです。 今日も南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせて頂きます。なむあみだぶつ。 仏のいのちと私のいのち 大峯 顕 http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20121111

信心肝要

…らないで死んだ人はどこへ行くんですか、と詮索する人がいますけれど、それは仏法が自分自身の問題となっていないからでありましょう。往生は他人事ではなく、めいめいの問題です。 【なぜ名が救いか 大峯 顕 著 百華苑 P69~P71より】 ※タイトル「信心肝要」は、この文章の内容から勝手につけさせていただきました。 大峯師の文章は、詩的で映像が目に浮かびます。また、宇宙的視点を感じます。 「如来の大生命還流」という表現いいですね。いつも、ウンウンと頷きながら、共感させて頂いています。