手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまと私

 

 確かに、法話(聴聞)やお聖教は大事です。しかしながら、肝心の阿弥陀さまを度外視しては意味をなしません。まずは、いま・ここで・私が、南無阿弥陀仏のはたらきに気づくことが先決です。「阿弥陀さまと私」「私と阿弥陀さま」が根本にあってはじめて、法話(聴聞)やお聖教が光輝く(より意味をなす)のではないでしょうか。

 深川倫雄和上は、以下の喩えもって教示しています。

譬えていえば、ある町へ行くと、お城があって大変高い石垣がある。お城へ登って外を見て、「ああ、いい景色」といえばそれでよろしい。下へ行ってから石垣を見て、「まあ高い石垣。よく組んだもの」と、暇があるから、この石垣の組み方を見てみようではないか。それがお聴聞。お聖教の勉強。上に立って、いい景色を眺めさえすればよろしい。だけども、暇があるから、よくもこんな石垣を組んだものだとその石垣の組み方を調べてみては、「ようこそ、ようこそ」というわけです。調べなくとも、景色に変りはない。石垣がどう積んであるかと研究しようがしまいが、石垣の上からの景色に変りはさらさらない。ないけれども、石垣を研究してみればみるほど、「ようこそ、ようこそ」とご恩が知らされる。

【佛力を談ず 深川倫雄 講話集 P117~P118 永田文昌堂 より】