2019-06-01から1ヶ月間の記事一覧
「自力」とは、一般に用いられている〈自分の力〉とか〈自然に備わった力〉のみを意味するものではなく、仏教で用いられる場合は〈自分の力で修行して仏果をえようとするはたらき〉をいうのです。いわば、いかにきびしい難行苦行を強いられようとも、悟りを…
言葉で物事をいかにわかりやすく伝えるか、これは私のテーマです。南無阿弥陀仏のことだけでなく、日常生活の出来事においても意識するようにしています。地元紙に投稿をはじめて1年4ヶ月が過ぎました。いままで採用された投稿記事をまとめました。 下記、…
これまでいとい嫌って避けていたことがらに対しても 、避ける必要がなくなり 、そのものに真正面から向かいあって 、それをわが身に受けとって 、そこに滋味を感じていくことができる 、この 「行 」が念仏というものだ 、といわれるのであります 。だから念…
善悪の考えは、考える人の程度で違う。ざっぱに考えると善悪ということは皆わかっておるようであるが、細かに考えると、或る人の考えておる善悪と、他の人の考えておる善悪とは違う。嫁と姑の善悪、親爺と子供の善悪、若い人と年取った人の善悪、みな違うの…
念仏者の人生は 「無碍の一道 」だ 、といわれております 。このおことばは 、念仏もうす身になればその人の一生にはさわりのない平坦な人生が展開する 、ということでしょうか 。おそらくそうではありますまい 。たとえ念仏もうす身になっても 、人間である…
自分が信じている宗教は正しいのだから、ひとりでも多くの人に、ある意味押し付けても、その人のため、という理屈はわかるのですが、なかなか難しいところです。妻や娘にも、南無阿弥陀仏を聞いてほしいのですが、こればかりは縁としか思えないこともありま…
私たちが念仏もうす身になることができたのは 、しんじつには 、人間からの努力によることではなくて 、全く一方的に 、如来に呼び覚まされての念仏だったということです 。お念仏の真実性が私を呼ぶのです 。私が念仏を選びとり 、私が念仏をとおとんでいる…
人情の入らぬ教え禅宗とか天台宗などの聖道門といわれる仏教が 、知恵の宗教 、行の宗教といわれるのに対して 、わたしたちのお念仏の教えは 、慈悲の教え 、情の宗教だといわれております 。それにちがいないのですが 、情の宗教といえば 、何か人間の私情…
ごみ拾いも発想の転換といいますか、心のもちようで楽しくなるものです。 南無阿弥陀仏のはたらきに気付く、ということ関してはいかがでしょうか。自分の都合のよいようにカスタマイズしようとしてもできるはずがありません。南無阿弥陀仏のはたらきは、人智…
はてしなく澄めるみ空に我を呼ぶみ声を尊く仰ぎてぞ聞くさらばなり苔の下にてわれ待たむ大和島根に花薫るとき今ははや心にかかる雲もなし心豊かに西へぞ急ぐ日も月も蛍の光さながら行く手に弥陀の光かがやく これらの歌では、「はてしなく空は澄んで」おり、…
自己と言いますか、自分が意識している自分というのは、必ずしも本当の自分での姿ではないのです。だいたいうぬぼれと言いますか、まず自分の意識している自分というのは、どこか足が宙に浮いている。ですから、自分のことは自分が一番よく知っているという…
私たちはこの(歎異抄)第三章の教えについては特に心をこめて聞かせていただかなければなりませんが 、それに先立って 、まず私はこの章と後の第十章にだけ用いられているひとつのことばに注目したいと思います 。それはこの章の結びの 「おおせそうらいき …
仏のお心は大悲心だといわれます 。大悲心とは 「大いなる悲しみの心 」です 。何を仏は悲しまれるのか 。仏の悲しみとは 、私の現在の生きざまを 、あるべきすがたでないと感ずる痛みの心です 。このあるべき状況にない私を 、あるべき状態にあらしめようと…
京人形の白い顔が汚れたと 、水でふけばふくほど 、下地が見えて穢くなる 。私も穢い心が照らし出されて 、よごれた物ばかり見えてくる 。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏【松並松五郎念佛語録 響流選書より】 京人形を通して、人間の本質をうまく表現されています…
一本の柿の木に育っても 、花のままで散るのもあれば 、小さいまま落ちるのも 、渋の残るのもある 。うれて人の口に入った柿が 、柿ではないでしょうか 。南無阿弥陀仏【松並松五郎念佛語録 響流選書より】 一本の柿の木ですが、それぞれの柿にもドラマがあ…
下々の下の下々の下の下に南無阿弥陀仏【松並松五郎念佛語録 響流選書より】 南無阿弥陀仏のはたらきは、隈なく隅々まではたらいているということです。漏れはありません。チカラ漲るといいますか、南無阿弥陀仏があって本当によかったなぁ〜、と素直に思い…