仏教の問題はこの現世だけをどう生きるかという問題じゃないんです。
この世の幸福か不幸かで人間の問題は終わりません。どんな幸せな人生であっても死があります。この世はやがて終わるんです。「やがて」というと、つい遠い未来のことのように思ってしまいますが、「やがて」ということは、文字どおり一瞬先のことかも知れません。そのような無常の人生を生きている私というものの行く先はいったいどこなのか、この人生の究極の意味は何か、ということを解決することが、お釈迦様がお開きになった仏教の根本問題です。これは浄土真宗だけでなく、禅宗であろうとその他の何宗であろうと、大乗仏教の問題はみんなその死の中で生死を越えた世界というものを知ると問題は解決するわけです。禅宗のお寺へ行ったら「生死事大、無常迅速」と書かれてあります。「無常迅速」というのは、われわれの命というものは明日にもわからん命だぞということです。「生死事大」というのは、そんなはかない命をもった一人一人が、解決すべき永遠の問題をかかえているということです。人間、いったい何のために生まれてきたか、そしてこの生の行く先は何か。これが人間のひとりひとりが、この世に生まれる前から背負っている問題です。そうしてこの問題の解決は、仏の悟りを開かれたお釈迦様によってとっくにわれわれに示されています。仏に成られた釈尊が、自力では仏に成れないわれわれ衆生が仏に成れる道を弥陀の本願の中に発見して下さったわけです。
【悪人成仏『歎異抄第三条』 大峯 顕 百華苑 P6,P7より】
生死問題、言い換えますと「いま」の問題です。
死は「やがて」訪れますが、突き詰めていいますと「今」です。仏教では生死一如といわれます。今一度、わたしの命について、じっくりと考えてみたいものです。
ここで、
「仏に成られた釈尊が、自力では仏に成れないわれわれ衆生が仏に成れる道を弥陀の本願の中に発見して下さったわけです」とありますが、
お釈迦さまの存在がなかったら、と思いますとゾッとします。
阿弥陀さまからいえば、我々の生死問題はすでに決着がついています。ですので、わたしはといいますと、その決着されてあることを、気付かせていただく、知らせていただく、だけなのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏