手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

阿弥陀さまのお育てにあずかる

親鸞聖人は『高僧和讃』の曇鸞讃で、我々凡夫の心を氷にたとえ、これに対して阿弥陀さまの大悲の心を海水にたとえておられます。凍っている海水が我々の心であり、阿弥陀を信じない我々の心は凍りついているわけです。我々は、誰もが外から来る敵や障害から…

阿弥陀さまと鬼ごっこ

(八二) 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる 【浄土和讃 「弥陀経讃」 浄土真宗聖典 (註釈版聖典)P571より】 摂取して・・・ 「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るな…

距離感  〜他宗教との違い〜

神様は、天国にいる 死んだら、天国で神様に会える 阿弥陀さまは、ここにいる 生死に関係なく、このいまも寄り添っている この距離感が、他宗教と大きく違います。 阿弥陀さまは、ごく身近な存在なのです。 今日も南無阿弥陀仏。 【早朝ラジオ放送(キリスト…

抱っこナウ(NOW)

「抱っこナウ」 ある講師(真宗合同布教大会)の現代風言い回しです。 阿弥陀さまと私の関係を分かりやすく表現されています。 わたしも使わせて頂きます〜抱っこナウ そして、南無阿弥陀仏ナウ 今日も南無阿弥陀仏

感想  〜第七回真宗合同布教大会〜  ※ネット中継

いろいろな切り口でのお話、非常によかったです。 宗派の垣根を越えた布教大会、素晴らしいです! 「南無阿弥陀仏」に西も東もありません。 勉強になりました! 以下、感想です。 M氏(真宗遇い難し)におきましては、いろいろな意味で感慨深いものがありま…

理屈はいらない

南無阿弥陀仏は私の命そのものであります。 ですので、理屈はいりません。 そのまま、ありのまま、受け取らせて頂くだけです。 今日も南無阿弥陀仏 『仰せ一つ 加茂 仰順(かも ごうじゅん) すねいる CD法話』 を聞いて自分なりにまとめてみました。 お勧め…

阿弥陀さまの一人働き

私の口から 「南無阿弥陀 南無阿弥陀仏」と声があがってくださるということ 合わす手でないこの手が合わされてしまうということ ひとえに、阿弥陀さまの願力のおかげなのです。 今日も南無阿弥陀仏

証拠

南無阿弥陀仏は、 私の上にすでに届いています。 その証拠は、 「南無阿弥陀仏」と私の口からお念仏が溢れでてくることです。 今日も南無阿弥陀仏

はからい

聞いて参ろう 唱えて参ろう 信じて参ろう これは、私のはからいです。 南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると この私のはからいは 実は、阿弥陀さまのはからいであったことが知らされます。 今日も南無阿弥陀仏

一心同体

本願力に遇って、 南無阿弥陀仏ひとつになりきらせてもらう 南無阿弥陀仏が私のいのち 私のいのちが南無阿弥陀仏 今日も南無阿弥陀仏

念仏者

念仏者 つまり、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされた人は、 この世の日暮れが あの世の夜明け そこに大安心があります。 今日も南無阿弥陀仏

棟方志功の回心

ある日、棟方がやってきて玄関を上がったところ、柱に掛けてあった短冊にくぎ付けになった。それには曽我量深の筆で「宿業者是本能、即是感応道交」と書いてあった。やがて棟方は「うわぁ!」と叫んで倒れ、そこいらじゅうをころげまわって、「ついにやった…

ただ信心を要とすとしるべし

『涅槃経』原文を読むと、耆婆(ぎば)は、阿闍世(あじゃせ)を慚愧ありと褒めてから、さらに語りかけている。その趣旨は、懺悔・慚愧による滅罪である。懺悔と慚愧は、そこでは、ほぼ同じ意味に用いられて次のように言う。 若し懺悔し慚愧を懐けば、罪即ち…