2010-09-01から1ヶ月間の記事一覧
如来の方から、この私へと、救いの法としての六字の法が、あらわれてくださるのである。 この六字の法のよび声を、私が握ったのではなく、たしかめたのでもなく、その握ろうとする計らいの心がとりあげられて、すなおによび声の聞こえたことである。 むしろ…
目の前に、「さあどうぞ!」と花束を差しだされたら、 「どうもありがとうございます!」と素直に受けとるのが普通です。 その花束を、どのように受けとったらよかろうか?などと、あれこれ考えることはありませんし、考える必要もありません。
阿弥陀仏に救われても、首ヘルニアにはなるし、蚊にあちこち刺されてイライラするし 今までと何一つ変わりません。 阿弥陀仏に救われてもスーパーマンにはなりません。
阿弥陀仏のお救いは、そのままでのお救いです。 煩悩があるままそのままです。 首ヘルニアで痛いまま、蚊に刺されて痛痒いまま そのまままるごとのお救いです。
煩悩そのまままるごとのお救いです。 ですので、阿弥陀仏に救われても日常生活は今までとなんら変わりはありません。 風邪もひきますし、腹も立ちますし、お金ももっと欲しいですし・・・ ただ、死んだら極楽浄土なんですけどね(^◇^)
阿弥陀仏に救われると、阿弥陀仏の本願を疑う心が無くなってしまいました。 阿弥陀仏の本願を疑おうとすること自体ナンセンスになってしまいました。
救われてもスーパーマンにはなりません
【 信疑決判 】 昨日は、母と信心の沙汰をしました。 阿弥陀さまのご本願を信じるか疑うか、 つまり、信疑決判によってのみ阿弥陀さまに救われたかどうかが判断できるということを話し合いました。 阿弥陀さまのお救いは、地獄一定と落ち切った先にあるもの…
本日、小松空港から帰路に着く予定です〜
昨日は、あほうどりさんより、本願力回向、阿弥陀仏の救いはただいまですよ!というお話を聞かせて頂きました。あらためて、南無阿弥陀仏と味わいさせて頂きました。 また、内匠頭夫妻、ヒラメさん(往生はなげた夫妻の息子が命名)におきましても、ただいま…
3日目はサンダーバードで福井です〜
本日、築地本願寺(聞法会館)にお参りさせて頂きました。 菊地英司 師(浄蓮寺:三重県)のご法話でした。 とても深く味わいさせて頂きました。 南無阿弥陀仏。
菊地 師のご法話から印象に残った中の1つです(大体、以下のような内容でした)。 (いつもは、ご法座の途中か終わってから参詣する同行に対して) 法然上人:今日の法座の到着時間がいつもより早いがどうしたのか? 同 行 :いつもですと暗い山道を足元に…
確かに、遅かれ早かれ、いつかは阿弥陀さまに救われるときがあります。 しかしながら、いつかは阿弥陀さまに救われるという「いつかは」に傾きますと、 いま、救ってくださる阿弥陀さまのご本願に相応しません。 ただいま、阿弥陀さまに向き合わせて頂かなけ…
阿弥陀さまのお救いに、ゴールを設定していませんか? 阿弥陀さまのお救いは、ただいまです。 阿弥陀さまのご本願を信ずるか否かただそれだけです。
阿弥陀さまのお救いは、ゴールに向かって進むようなものではないと思います
川の流れに逆らって泳ぐと大変きついですが、 小舟にでも乗せてもらって、ただその流れのままにまかせて、のんびり浮いているほど楽なことはありません。 阿弥陀さまのお救いは、ちょうどそのようなものだと思います。
一方通行の標識を無視して進めば大事故に繋がりますし、交通違反で切符を切られます。 ましてや、阿弥陀さまの一方通行の仰せに自分の計らいがあれば、再び、迷いの世界に逆戻りになってしまいます。
どれだけ善をしても自力です。 どれだけ念仏を唱えても自力です。 自分から向かうものではありません。 阿弥陀さまの一方通行の仰せをただ「はい!」と聞かせて頂くしかありません。
ありがたく思えたなら救われる。このようにしたなら救われる。 こうなると、どうしても自分の計らいが入ってしまいますし、 いま、救ってくだされる阿弥陀さまの本願からズレてしまいます。 「〜なら」は捨てものです。
煩悩のおかげで、阿弥陀さまのおはたらきをありがたく味わいさせて頂いています。 日々、いろいろなシーンで、南無阿弥陀仏と気付かされます。 阿弥陀さまから、ご信心を賜りますと、煩悩が一味違ったものになります。
同じご飯でも、おこげがあれば一味違います
ある意味あたっていると思います。 ただし 「阿弥陀さまよりご信心を賜った人は」という肝がなければなりません。