手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏がこだまする

 阿弥陀さまが阿弥陀さまに成っておられるのは、われわれを可哀想だと思って心配しておられることではありません。もしそうだったら私たちは救われません。そうではなくて、阿弥陀さまは私たちが往生することがわかって安心しておられるのです。
『安心決定鈔』に、


かるがゆゑに念仏の行者、名号をきかば、「あは、はやわが往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆゑに」とおもふべし。(『註釈版聖典』1387〜1388頁)


という言葉があります。蓮如上人はこの言葉を非常に大事にされ、『夏御文章』第二条にも引用されています。山科本願寺に門徒たちが参って後生のことについて、私はまだ心配だとか、私はだいぶ明るくなったとか、めいめいに話をしていたそうです。そこへ蓮如上人がお出ましになって、あなた方はつまり往生の証拠が欲しいのだろう、と言われたそうです。皆さんもそうではありませんか。私たちは、お浄土に往く証拠を生きている間にいただきたいのです。信心決定とは往生の証拠をいただいたということです。死ぬ時には阿弥陀さまが迎えに来てくださって助けてくださるのだろうと、ぼんやり期待している心情は、浄土真宗の信心ではありません。往生の証拠をいただくことが信心決定です。蓮如上人は、その証拠は南無阿弥陀仏の名号だと言われたのです。
 これは非常に大事なことです。往生の証拠を探して自分の心の中をしらべる必要はないのです。私が耳に聞き口に称える南無阿弥陀仏の名号がましますことこそ、私が往生できる証拠です。法蔵菩薩が南無阿弥陀仏の名号になっていらっしゃるのは、本願が成就したということであり、衆生を助ける決着がついたからです。このことにはっと気づいたことが信心です。ありがとうございましたという念仏がすぐ出て来ます。このお念仏が出ないのは、助けていただいたことがわからないからです。もしそうならよくよく聴聞して、阿弥陀さまの言葉を聞かねばなりません。そうすれば、自然にお念仏が出てくるのです。本当に助けてもらったら、南無阿弥陀仏が出て来ます。私の称名は、私を招喚する阿弥陀さまの声のこだまだからです。
【生命還流 浄土和讃を読む 下 大峯 顕 本願寺出版社 P120〜P122より】



「私の称名は、私を招喚する阿弥陀さまの声のこだまだからです」
素晴らしい表現ですね。
「南無阿弥陀仏」を通して、阿弥陀さまとわたしの対話が成立しているということです。
引き続き、遠慮なしにお念仏を称えます。
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