手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

私が思う 思わない、は関係ありません

どこへ行こうが何も心配ないというのが、阿弥陀さまを信じているということです。極楽へ行かなきゃ意味がないと思って念仏している人の思いは、信心ではありません。信心だと思い込んでいるだけです。信心と、信心と思っていることは大間違いです。「私はお浄土へ生まれると固く信じています」というのは、信心ではありません。これは自分の思いにしがみついている心です。あるおばあさんが、「私も助けてもらえると思っています」とおっしゃるから『「思う」は余計です』と言ったことがありました。その人が思わなくても、助けるとおっしゃっているのが阿弥陀さまなのです。だから信心とは、「私が思う」ということが取れるということです。後生大事に持っている「私」がなくなったことを信心というのです。私の確信などというものは余計なことなのですね。今はそう思っていても、死ぬ間際になったら怪しくなってしまう、その程度の確信に過ぎないからです。
【科学技術時代と浄土の教え(上) 大峯 顕  響流書房 より】



因幡の)源佐さんは、
「源佐さん、餅を蒸しますが、ぜんざいがよいか、それとも味噌煮にしょうか、なにがえゝな」と尋ねられたところ、
「おらか、おらにや、たゝ蒸してごしなはらやえゝだがやあ。餅にや餅のえゝ味があるけんのう」と返答されました。
言わんとしていることは、
「餅は餅そのものの味があるので、あんこや味噌といった(余計なものを)付け加える必要はありませんよ」ということです。
ここでは、もち出して(親父ギャグではありません)、南無阿弥陀仏についてさりげなく教えて頂いています。
つまり、南無阿弥陀仏をそのまま受けとらせていただく、ということです。南無阿弥陀仏を語る上で、わたしの思いやはからいは全くもって無意味ということです。
阿弥陀さまのおはからいに、そのままおまかせです。
本日も 生かされて なむあみだぶつ



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