2019-04-01から1ヶ月間の記事一覧
人間は極めて自尊心が強いから、やはり少々のお世辞がまじっていても、ほめられるとうれしいものなのであろう。また、自ら十分に認めている欠点であっても、第三者からそのことを指摘されると、相手への反感が生じることは間々あることである。 したがって釈…
「善いことをする」といいましても、自己顕示欲や名誉欲に動かされてのことですね。無人島で生活していたら、そういった欲も少ないだろうなあ~と思うこの頃です(笑)。雑毒の善しかできない私ですが、善には違いありません。この世で生きているうちは、そ…
上山: 「如来にまかせる」ということと、「自分(わが心)にまかせる」ことの違いを、もう少し詳しくおっしゃってくださいませんか。 梯: 「自分にまかせる」ということは、自己中心的な想念に振り回されて、愛憎の煩悩の命ずるがままに振る舞うことです。…
「無碍の一道」とは、まさに「転悪成善の益」と同じ内容であるといってもよいでしょう。昔の歌に、 生花(いけばな)のこの世の水につけられて、花は咲けどもみのらざりけり と詠まれたものがあります。同じ梅の花でも根を切られた生花と地に植わった花とで…
(梯 實圓)和上は、昨年末より体調を崩され、入院しておられましたが、いよいよ臨終が近いことを御家族も覚悟された時のことだったそうです。奥様が、和上に「お父ちゃん、五十六年間、ほんまにありがとう。ほんまに楽しかったね。」とお声をかけると、和上…
このブログ名を手品師としたのは、私の趣味がマジックというところからです。私のテーマは、いかに言葉で物事を簡潔にわかりやすく伝えるか、です。南無阿弥陀仏のことだけでなく日常生活の出来事においても同様です。日々、意識するようにしています。 今回…
浄土に往生して仏となった人は、浄土でただ安逸(あんいつ)をむさぼっているのではないのです。阿弥陀如来と同じ覚りを得た者は、その瞬間から阿弥陀如来の大慈悲のはたらきに専念することになります。かつての子や、あるいは父母のいるこの世にふたたび還…
親鸞聖人は『唯心鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』のなかで、 この信楽(しんぎょう)をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚(しょうじょうじゅ)の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくな…
浄土真宗の信心と他の宗教のそれを区別して、浄土真宗では信心であって信仰ではないという人がいます。しかし、信仰という語と区別すれば、信心が明らかになるというものでもありません。現に、神信心とか「鰯(いわし)の頭も信心から」というような使い方…
いずれの宗教においても、信心を語らないものはありません。なかでも浄土真宗は信心中心の宗教で、他の宗教でいう信心とは、その信心の性格が著しく異なっています。一般には、お不動産を信心してお百度を踏んだというように、信心はお百度を踏むための前提…