2012-03-01から1ヶ月間の記事一覧
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のよびかけに 南無阿弥陀仏と唱えるのではなく 南無阿弥陀仏と称えさせていただく ただそれだけなのです
わたしの自信に満ちた計らいにばかり目が向いている人は ある意味、善人さまです。 阿弥陀さまのお救いに相応しないのです。 なんだかなぁ〜
如来様に御無理はない。心のにごる凡夫に心をすませよと言われたら御無理である。善根功徳の出来ぬものに善根功徳をせよと言われたら御無理である。今はそうでない。罪はいかほど深くとも、また罪を言えば十悪五逆、障を言えば五障三従のそれには心をばかく…
※「智慧」違い・・・・・・
信じることと信じていると思うこととは根本的に違うのです。思うという余計なものがなくなったところが信なのです。だから、本当の信心というのは確信という状態から最も遠いもののように思います。「私は阿弥陀さまに助けられると確信しております」。「私…
阿弥陀さまは世間の話をあれこれするのではありません。いつも「私はここにいるぞ」と言うだけです。これが阿弥陀さまから私の方に語りかけるただ一つの言葉です。「私はどこへも行かない。ここにいるぞ」――このただ一つの言葉こそが永遠に変わらない真実の…
或人問うて云く、信心とは如何、 和上答えて云く、御助けに疑いはれたが信心と云うべし、 或人云く、爾らばその疑いはれるとは如何、 和上云く、疑うてはならぬと云えばなおなお疑う故に、願力の御不思議で御助け下さるに間違いないと信ずるばかりなり、夜の…
或人問うて云く、私は御信心を頂いたのなら何か確かな思いになりそうなものと存じます、然るに何とて確かな印しが御座りませぬ故どうも安心が出来ませぬ、 和上答えて云く、その計らいは丸で自力なり、我胸を押さえて参れようか参れまいかと探る心を喩えて見…
信心を頂くとは、南無阿弥陀仏のおはたらきを気付かせて頂くということです。
気付くということは、すでに届けられている、すでにつつまれているということです。 私のはからいが、阿弥陀さまのおはたらきをブロックしているのです。 もったいないことです。
「聞こえたままが信心」であって、聞いたツモリではありません。
信心は、つかみにいくものではありません。 そもそも、つかみにいってもつかめるはずもなく、信心は物ではありません。
自分の知識や経験といったものさしでいくら計らっても、結局裏切られます。 阿弥陀さまのものさしに依らなければなりません。
『ただ仏法は聴聞にきわまることなり』と、蓮如上人は「御一代記聞書(一九三)」でお示し下されています。 そこで、留意しなければならないことは、 聴聞したから、阿弥陀さまに救われるということではありません。 聴聞に傾いて、肝心の阿弥陀さまがどこか…
「私が聴いているうちに、聞こえてくるのです」 私の好きな表現のひとつです。
「いつ帰って来てもええんやで〜」 帰るところがあることは誠にありがたいことです。 生きてよし、死んでよし、なのです。 そこには大安心があります。
平成24年3月16日撮影 昨日、願教寺(盛岡市)のご法座にお参りしました。 今回は、観光ではありません(笑)。 講師は、守 快信 師(滋賀・東光寺)でした。 聞かせて頂いたことを、自分なりに表現させて頂きました。 非常に味わいのあるご法話でした。 【ご…
又おその或時、寒さのあまり手拭を被りてゐたが、フト氣が付いて見れば、頭に手拭はない。これはしたり何處で落したのかしらんと足元を見廻してゐたが、其姿を見付たる他の御方より、「おそのさん貴女の手拭は暖簾にかゝりていますよ」と云えば「ア――左様で…
楠: ここに一つ歌を出しますと、 わたしゃあさまし 親のご恩がよろこばれん よろこばれんなら ほうっておけよ 凡夫がよろこぶ法ではないよ ごおんうれしや なむあみだぶつ。 金光: ハハアー、やはり才市でも「親のご恩がよろこばれん」と言うんですね。 い…
下ッ駄〜ロボではありません(苦笑)・・・・・・
今日、他力本願という言葉が、たいへん誤解を招いていますけれども、本当に頼るべきものに頼って生きる人生と、頼るべきでないもの、頼りにならないものに頼って生きる人生には、大きな隔たりがあることを知らせていただくことが大切です。 他力本願とは、阿…
楠: 吉兵衛さんは西方寺元明さんに会ってから奥さんに、 「私に暫く暇をくれぬか、あのようなお方のお供をして行きたいから」 と言って暇を貰うんです。そうしてどこまでも聴聞したい一心から西方寺師に付き纏うようにしてお説教に行かれる師の両掛けの荷物…