手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

ただおまかせ

 とくに(歎異鈔)第二条の
「念仏は、まことに浄土に生るるたねにやはんべらん、また地獄におつるべき業にてやはんべらん、総じてもって存知せざるなり。」
などはその一例です。お念仏して果してお浄土へ行けるのか、それとも地獄へ落ちるのか、そんなことは私は何も知らんというのです。こういうことを言った宗教家は世界中で他にないんじゃないでしょうか。私の教えの通りやったら助かり、幸せになるんだ、と言うのがたいていの教祖たちでしょう。ところが親鸞聖人は、お念仏というものは地獄へ行くか極楽へ行くか私にはわからん、念仏以外に何もできない私だから、法然上人が教えて下さったようにただ念仏するだけだ、と言われているのです。これは実は宗教的信仰というものの純粋無比な表白であります。
 しかしこれはうっかりすると、親鸞聖人もやっぱりお念仏を疑っていたんじゃないか、というふうに誤解して受け取る人があるみたいです。 (略)
蓮如上人はたとえばこういうことが起こるかもしれないと直感されたので、「無宿善の機」には見せてはいかんと言って、一般公開をはばかれたのでありましょう。
 要するに、蓮如上人自身は『歎異抄』は素晴らしい本だと思われたことは明らかです。これには真実信心が記されてあるということが直感的にすぐわかった。ご自分は分かったけれども、誰にでも見せたら正しく分かるというものじゃないということもわかって、いわば禁書にしてしまわれたのです。だから、蓮如上人以降ずっと長いあいだ、おそらく江戸時代の末期頃までは、一般の真宗の人々はこの書を自由に読めなかったわけです。
【誓願の不思議 『歎異抄』第一条 大峯 顕 百華苑 P6〜P8より】



言葉を文字通りに捉えますと、ときには大きな誤解を生みます。歎異抄も然りです。
「念仏は、まことに浄土に生るるたねにやはんべらん、また地獄におつるべき業にてやはんべらん、総じてもって存知せざるなり。」のお言葉には、「阿弥陀さまにただおまかせ、それ以外になにがあろうか!」という強い意思が顕著にあらわされています。
また、
「私の教えの通りやったら助かり、幸せになるんだ、と言うのがたいていの教祖たちでしょう。」と、教祖の定義も述べられています(笑) まったくその通りですね〜
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



誤解