手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧

聴聞

親鸞聖人は『教行信証』のなかで、『大無量寿経』の異訳である『平等覚経』のことばを引用して「楽(この)んで世尊の教を聴聞せん」(「行巻」)と示されてきますが、その「聴聞」の語句に「ゆるされてきく、信じてきく」の左訓を付しておられます。 本来、…

浄土真宗の信心

たしかに、どのような宗教でも信を語ります。学問が疑いをその出発点とするに反して、宗教は信の可否が問題になるのです。ところが親鸞聖人が、 「信心」といふは、すなはち本願力回向(ほんがんりきえこう)の信心なり。 (『教行信証』「信巻」『註釈版聖…

対話(読書を通じて)

思考が自己との対話であるように、読書は著書との対話です。人は一人で生きているわけではありません。外に出かけないで家にこもって仕事をしていると、一日中、誰とも一言も言葉を交わさないということはあります。 たとえ誰とも話さなくても、本を読めば著…

たしかなよろこび

いま、南無阿弥陀仏の六字の名号は、阿弥陀如来が、無限の智慧と慈悲をそなえて、真実の世界から「仏の願いに目覚めよ」とあらわされたもうた仏の喚び声であり、それは、 究竟(くきょう)して聞(きこ)ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。 (「重誓偈…

私の考えはちょっと横に置いときまして

『教行信証』「総序」に「聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ」という言葉があります。私が思ったら思っただけ間違うぞ、だからお前の考えを横に置いておけということです。人間の考えを捨てる訳にはいかないから、ちょっと横に置いておけ。教…

阿弥陀さまのはたらき(浄土真宗の信心)

仏さまは私が納得しようがしまいが、「われにまかせよ。必ず救う」とはたらきかけられます。今の私ではだめで、いつか信心を得た私に成るのを待っておられる訳ではありません。「たった今、ここで、必ず救う」とはたらきかけておられるのです。その仏さまの…

願行具足の南無阿弥陀仏

切りたての 髪をみて 少し驚くあなた 柔らかな5月の風が 耳元 くすぐる 突然の再会は 過ぎてゆく流れさえ巻き戻す様に あなたを近くに感じた 「もう戻れない…」と つぶやく横顔見れずに 波のような おしよせる涙があふれた あの日 いつの日か別々の道を選ぶ…

浄土真宗の信心

浄土真宗の信心は、救いの証拠の南無阿弥陀仏が今ここにわたしに届いていると聞くことです。理解してわかることや信じることではなく、救いの証拠の南無阿弥陀仏が届いているから大丈夫、ということを「聞いて知る」、それが信心です。疑いが差し挟まれる余…

目線

歩道を歩いていましたら、「あぶない!!ここで遊んじゃだめ!」という子供に注意を喚起する看板を目にしました。ただ、その看板の位置が、大人の私からも見ても見上げる高さにあります。明らかに大人目線での設置です。注意を促さなければならない肝心の子…

仏さまの救いとは

もともと仏教とは、真実に目覚めた方である仏陀のみ教えを聞いて、生と死に処する正しい法を知らせていただき、正しい道理に目覚め、正しい道理の感覚を身につけさせていただく宗教であったはずです。言い換えれば仏教は、私どもに新しい目覚めと精神の秩序…

『歎異抄』の言葉の重み

おそらく『歎異抄』が今日までこれだけよく読まれているのには、もちろん親鸞聖人のお言葉の尊さがあります。しかしその尊いお言葉を、唯円房自身が非常に深く確認し、確認した真理を、〃俺の言っていることこそ正しいのだ〃という押しつけでなくて、〃どう…

言葉の力 ※B級手品師(東奥日報&日常編)ブログのご紹介(3回目)

私のテーマは「言葉で伝える」ことです。 昨日(2/28付)の東奥日報 夕刊(明鏡欄)に私の投稿が掲載されました。 今回の お題は 「一気飲みから たしなむ酒へ」です。 手品師ブログの趣旨とは違いますが、「言葉の力」という視点から案内いたします。よろし…