手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2018-02-01から1ヶ月間の記事一覧

「生きること」について ※投稿文

青森県は短命県といわれて久しい。毎年の短命県報道は非常に耳が痛い。県として、健康に対する啓蒙活動に力が入っていることは周知のとおりである。その一員である私も健康には人一倍気を遣っている。では、なぜ健康に気を遣うのか?それは、健康が損なわれ…

咬み合わない

「方法」という言葉の意味をあらためて国語辞典でみてみますと、「目標に達するための手段。目的を遂げるためのやり方。てだて」とあります。すでに届いているもの(南無阿弥陀仏のはたらき)に対して、「方法」という言葉がでてくる余地は微塵もありません…

「疑う」とか「惑う」ことについて

他力本願によって助けられると聞いても、本当に此の私が助かるのか、どうかをよくよく考えねばなりません。十方衆生を漏らさぬと聞くから、私も助かるであろうというようなことでは、如何に信じたつもりでも、それは信じたのではなく、助かったのでもありま…

宗教は「今」の問題

初めは誰でも、この世のことから出発するのですけれども、いつの間にか、その出発した処を忘れて、あの世から出発して、求道聞法するようになってしまうのであります。それがため、聞いても聞いても会得(えとく)がいかなくなってしまうのであります。 求道…

心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり

一休禅師の逸話が思い出されます。ある時、禅師が人々を集め一本の曲がりくねった松を指して誰かあの松をまっすぐに見ることが出来るかと謎をかけた。人々がいろいろ工夫して竪(たて)から見たり横から見たり、股の間から覗いたり、何とか真直に見ようとさ…

念仏は希望の源

法を聞いて至らぬ己れに気づくということは、自己に執じていた心の結ぼれがほぐされてゆくことである。自己を中心に廻っていた執我の軌道を破れて、自己を超えるまことの世界が現れて下さることである。法の静風に吹かれると始めて滞ることなく、自己を忘れ…

南無阿弥陀仏のはたらき

現代人の一般的な感受性から最も遠ざかってしまったものが、まさしくこの普遍化の方向への生命の自己超越である。現代のわれわれには、個体としての生命の輪郭だけが強く意識され、普遍的生命と個体とのつながりは、ほとんど見えなくなっている。生命とは、…

念仏はよろこびの声

家が小さいので四畳半の部屋を増築して、一方に取付けの書棚を大工に作ってもらった。洋間にしつらえたので塗装屋が来てその書棚にニスを塗って仕上げた。帰ってから見ると上の方の棚は塗ってあるが、下二段の裏が塗ってない。さては忘れたなと思うて早速呼…