2011-11-01から1ヶ月間の記事一覧
本日の昼間、東北自動車道を走っていました。 長いトンネルを抜けて、しばらく走っていると 道路脇にある反射板に車のライトの光が反射していることに気付きました。 (車はオートライトではありません) 車のライトを消すのをすっかり忘れていたのでした。 …
宇宙戦艦ヤマトファンなら、分かると思います〜(笑)
「たすけたまへ」という語は浄土宗の鎮西派で使われていたが、それは仏に対する衆生の祈願、請願の意味、つまり自力的な信心の性格をもっていた。 しかるに蓮如上人において、この語の自力的使用法から他力的使用への空前の転向、コペルニクス的転向とでもい…
コペルニクス的転回(コペルニクスてきてんかい、独: Kopernikanische Wende)とは、哲学者のイマヌエル・カントが自らの哲学を評した言葉である。 コペルニクスとは、それまでの常識であった地球中心説に対して太陽中心説を唱えた天文学者である。 認識論に…
ながいあいだ仏道の敵とみなされてきた煩悩はもはや敵ではなくなった。 なぜなら、如来の本願はまさしく煩悩具足の凡夫を救うための本願であり、われわれは煩悩あるがゆえに救われるのだからである。如来の本願を信ずる者は、煩悩の火を迂回することなく、煩…
友人から、 「誕生日おめでとう!これ誕生日プレゼントだけど!受け取って!」と、 プレゼントを目の前に差し出されたら、 「ありがとう!」と素直に受けとるのが普通ですし自然です。 「どのように受けとったらよいか?」と受け取り方ばかり気にして躊躇し…
南無阿弥陀仏の名号こそ、私たちがまちがいなく仏になれる証拠であります。 阿弥陀様というのは実にこの名号のことなんです。南無阿弥陀仏を別にして阿弥陀様はどこにもいらっしゃいません。 「南無阿弥陀仏はわれらが往生の定まりたる証拠なり」(「御文章…
お念仏をしたらその功徳で助かる、というんじゃありません。お念仏しようと思う心がふと起こった瞬間にもう助かるのです。なんという不思議でしょうか。 「弥陀の誓願不思議にたすけまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのお…
阿弥陀さまのお救いは根性路線ではありません。
妄想・妄念が起こるのをとどめる必要はありません。 それをそのままにしておいて、如来様の御本願を思い出せばよいのです。 【宿業と自由 『歎異抄』第十三条 大峯 顕 百華苑 P56より】 【手品師コメント】 そういえば、以前、母が同じようなことを話してく…
要するに(歎異抄十三条は)、自分の小ざかしい自己反省と、これで良いのだという自己義認、そんなものは全部忘れてしまえ、そういう自分の計らいをすっかり忘れて如来様の本願に任せていけと、言われているのです。 他力の信心というのは、そういう意味で自…
「念仏は自分でとなえているのだ!」と、おっしゃるでしょうか。 確かに口を動かし、声をだしているのは自分の意思によるものに違いありません。 しかし、わたくしの意思に働きかけて、わたくしをして念仏せしめている働きがあるからこそ、このわたくしが念…
仏法を聞いていましても、はからいがあるとなかなか如来さまのお心を受け入れることができないですね。頭で如来さまをつかむことはできないのです。 信心というのは、私が阿弥陀さまをつかむことじゃなくて、阿弥陀さまの方が私をつかむこと、私が阿弥陀さま…
琴の糸(ことり さん) より http://kotonoito.blog89.fc2.com/
お浄土に生まれたいという願いだけは、個人を超えた願いです。 個人を超えたと言っても、個人と関係がないということではありません。個人の根底を流れているいのちそのものの願いです。その願いを私たちはどんなことがあっても離れることはできないんです。…
他の宗教はみな、お釈迦様のお悟りから始まります。お釈迦様が説かれているからお経は真理だということになっているわけです。 ところが、(親鸞)聖人は、釈尊の説法がまことであることの根據を、釈尊個人の力にではなく、弥陀の本願に見出されるのです。 …
如来様の光に照らされた人はかならず自己中心的な心を開いて、如来様の言葉を受け入れるようになります。一念発起とは、暗い心が開かれることです。 ちょうど古代ギリシャの『イソップ物語』に出てくる北風と太陽のはなしみたいです。 太陽と北風が一人の旅…