2017-08-01から1ヶ月間の記事一覧
信心とは、本来、思いや心をあらわす言葉ですから、私たち衆生の、信じて疑わない心のことをいっています。何を信じて疑わないかというと、阿弥陀仏の救いを信じて疑わないことであり、それはいい換えれば、浄土に往生できることを信じて疑わないということ…
信心といってもそれは、「汝(なんじ)を引き受ける、助ける」との仏の仰せ一つがそのつど実感的にまことと有難く感じられる外にはない。信心を自分の心に確かめる必要もないので、信心を得たということを意識することもいらないのであった。 【佛に遇うまで…
「土井さん、口から耳、これだけやで」といわれた。その時、私はその意味が分からずに帰ったが、今になってそれは、口に称える念仏が耳に聞こえているそのままが、弥陀の仰せが聞こえている、そのほかに信心はないという真宗信心の肝心かなめを指摘されたの…
日本社会では、特定の宗教集団による強引な勧誘は盛んであっても、宗教とはなにかについて、まとまった知識を身につける機会が少なく、したがって宗教の中身がはっきりしないまま「無宗教」と称している場合が多いようだ。もしそうならば、宗教に関する知識…
問題は、集団が堕落していようがいまいが、私が自らの救済をどのように実現するかであろう。私の「生死からの出離」を実現するうえで、どうしても堕落した教団が邪魔だとなれば、それから離れればよい。教団とは無縁の救済論も存在するのであるから。 大切な…
本願念仏においては、信心が問題となるのであり、善悪は問題とならない、ということがくり返し述べられている。それは、『歎異鈔』を貫く根本テーマだといってよいだろう。別の言葉でいえば、『歎異鈔』は、道徳の書ではなく、宗教の書だということである。…
阿弥陀仏の願いに出遇いながら、それを自分のことでないように横に置いておき、さとりを求める心をどのようにおこしたらいいだろうか、浄土に生まれるにはどのように行いを清く正しくしたらいいだろうかなどと考えることは、悲しむべき自力の執着心であり、…
親鸞の理解によれば、阿弥陀仏自体が、真理が人間のために仮に姿をとったもの、なのであり、阿弥陀仏の本体(法性・真理)は、人間の認識を絶しており、言葉でも理屈でも感覚でも捕まえることはできない、まったく人間とは隔絶している。だが、その絶対的な…