手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

宗教と言葉の本質

大峯 師(1)
人間にとっての言葉は、魚にとっての水のようなもの。魚は水がなければ死ぬ。それほど切実だから、かえって見えない。宗教も突き詰めて言えば、本当の言葉に生かされているという感覚のことだと思う。浄土真宗では、名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」自体が仏です。仏が語る言葉はお経、仏である言葉が名号です。
【語句】 南無阿弥陀仏阿弥陀(あみだ)仏に帰依しますとの意味



南無阿弥陀仏という言葉は、単なる概念や記号ではありません。
このいま・ここで・わたしに、はたらいているおはたらきなのです。
今日も南無阿弥陀仏




大峯 師(2)
それにしても、歌の「千の風になって」じゃないが、死んだ人は墓の下にいません。遺体や墓ではなく、魂という言葉で表されるものがある。浄土真宗の教学者に言えば、「仏教は魂という言葉を使わない」と怒りますが、人は死んでも消えたりしない。生きている人に影響を及ぼし続ける。浄土真宗の教義にある還相回向(げんそうえこう)も、そうとらえていい。
【語句】 還相回向阿弥陀仏の力で往生した人が現世にはたらきかけること



このいま、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされている人は、今生の寿命を終えると浄土に往生(即成仏)し、南無阿弥陀仏のはたらきとなって、再び、この迷いの世界(娑婆)に戻り衆生救済の仲間入りにさせて頂けるのです。
こんな素晴らしいことはありません。
自分さえよければよい、ではないのです。
今日も南無阿弥陀仏




大峯 師(3)
宗教において、超越的なものから自己への垂直線が見失われています。まっすぐ垂直に貫かなければ、宗教はないのに。



阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきかけを
「超越的なものから自己への垂直線」という表現でコメントされていると推察します。
「垂直線」という言葉に、『南無阿弥陀仏のはたらき』の力強さを感じます。
今日も南無阿弥陀仏



http://mainichi.jp/shimen/news/20151024ddm014040015000c.html
注)ネット上(毎日新聞)では、池田晶子さんの回想(記事後半:大峯 師3)はカットされています。