手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2023-12-01から1ヶ月間の記事一覧

偉くなっても駄目

どんなに仏教の教えを学んで、知識が豊富になっても、阿弥陀如来の明るい眼(南無阿弥陀仏のはたらき)とめぐりあわなければ、すべて空しいことである。阿弥陀如来の広大な心に文句なしに頭が下がって、初めて明るい人生が歩めるのだとうなずいて、生涯その…

浄土真宗とは

親鸞は言う 浄土真宗に帰(き)すれども 真実の心(しん)はありがたし 虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて 清浄(しょうじょう)の心もさらになし (『正像末和讃』) 親鸞の悲歎である。もし、真宗に出遇わなければ、「わが身こそ真実」と、傲慢(ごうま…

不可称不可説不可思議 ー 思議を超える

【歎異抄第十条】 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。 【語注】 無義をもって義とす 人間の思慮分別を加えないことをもって本義とする意 【現代語訳】 「念仏は、義(はからい)無きをもって本義とする。称…

南無阿弥陀仏とは

蓮如さまは、「南無阿弥陀仏の南無というのは、頭が下がる(帰命)ということである。何に頭が下がるのかと言えば、明るい阿弥陀如来の眼(南無阿弥陀仏のはたらき)に、文句なく頭が下がるのである。また発願回向(ほつがんえこう)というのは、頭が下がっ…

浄土往生の人生

明応二年の元旦に、ご挨拶にやってきた勧修寺の道徳に対して、蓮如さまは、「道徳よ、そなたは、もう数えることも忘れているかもしれないが、いったい、歳は幾つになったのか。人生を空しく過ごしてはならない。道徳よ、本当の念仏を称えなさい。常識的にみ…

ふとお念仏がでる

まだ寒中であるにもかかわらず、木々の芽が大分ふくらんできたようである。この芽のうちに、大自然の働きの一切が集中せられてあることが思われる。 大空を仰いで見ると、太陽はいつものように輝いている。大地はいつものようにしめっている。ほがらかな日で…