2011-02-01から1ヶ月間の記事一覧
阿弥陀さまのお救いは、いつでも、どこでものお救いです。 ですので、時や場所を選びません。 つまり、この今、この場でのお救いです。
阿弥陀さまのお救いは、「〜したら救われますよ!」とか「特定の場所で聞かなければダメですよ!」というような条件はありません。 もし、阿弥陀さまのお救いに、このような条件を強調する人がいるならば、それは、とんだご教祖さまです。
(大峯) 信心というのは「そうだったか、もう救われていたのか」と気づくことです。われわれがこれから何かをやるんじゃない、もう済んでいたのかと気づくこと。今までそれに気づかないでいただけのことで、気づいたということが、助かったことです。 【 君…
(大峯) 自分という存在のもっと深い根を知らされるというか、自分の力じゃなくて、何かもっと大きなものが自分に侵入してきて、自分がはっと目が覚める。 けれどそれは自分というものの上に起こること、あくまでも自分という存在の上の出来事だから、そう…
(大峯) ぼくはハイデカー信者じゃないですけど、言葉の問題でずいぶんハイデカーから学びました。名号論を書いたときにはハイデカーの言語論にずいぶん助けてもらいましてね。 たとえば「言葉が語る」という言い方など。人間が語るのではなく、言葉が語る…
※カタールの国旗
聞こえたままが信心。 心に保つものではないですし、守るものでもありません。 理屈ではありません。
「素直に聞け」と申されましても、わたくし自体は、はからいや疑いでいっぱいでございます。疑うほかにないこのわたくしに、ただいま南無阿弥陀仏とあがってくださることが、これは疑えない証拠でございます。 如来さまの名号として、わたくしの上に名乗りを…
「なんとかお願いします!」と、私の方から差し向けるのではありません。いくらお金を積んでも全く意味がありません。全くもって無意味です。
現代語訳によって、本来のニュアンスが変わってしまうことがあります。 例えば、蓮如上人御一代記聞書(五五)の「たしなむ心は他力」という現代語訳です。 「たしなむ」という現代語訳を「心がけて努める」とするのか「慎む」とするのか。 現代語版(本願寺…
阿弥陀さまは、「このいま、たすける!」と仰せです。 だから、私は「このいま、たすかる」のです。
阿弥陀さまの、「たすけるぞよ」を「はい」といただきます。 阿弥陀さまの、「たすけるぞよ」をそのままいただきます。 阿弥陀さまの、「たすけるぞよ」を「はい」と素直にいただきます。 阿弥陀さまの、「たすけるぞよ」を素直に「はい」といただきます。 …
阿弥陀さまとわたしの間に距離はありません。 このいまもピッタリ寄り添ってくれています。 わたしの人生となって。
【原文】 実如上人、さいさい仰せられ候ふ。仏法のこと、わがこころにまかせずたしなめと御掟なり。こころにまかせては、さてなり。すなはち、こころにまかせずたしなむ心は他力なり 【浄土真宗聖典(註釈版)P1250 蓮如上人御一代記聞書(五五)より】 【現…
(三九)罪の沙汰は無益なり 仰に、一念発起の義、往生は決定なり。つみけして助たまはんとも、つみけさずしてたすけたまはんとも、弥陀如来のはからひなり。つみの沙汰无益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふ事なりと、仰られ候なり(蓮如上人御一代記聞書…
阿弥陀さまに向かわせて頂きますと 方法とか手段とか手順といったことはまったく問題になりません。 方法とか手段とか手順といった言葉は一切でてきません そんな言葉はまったく必要ありませんし、関係ありません
いま救う!という言葉の前では 目的とか目標とかゴールという言葉は、どうも噛み合いません 目的とか目標とかゴールと言った時点で自力になってしまいます これらの言葉は どうしても自分の計らいが入ってしまいます どうしても自分の都合になってしまいます…
日本語って、いいですね。 南無阿弥陀仏を「なむあみだぶつ」とひらがなで書くと やわらかい感じがします。あたたかい感じがします。 南無阿弥陀仏が身近に感じます。理屈なんぞありません。
「ただおまかせ」といわれても 「じゃあ、どうまかせればいいの?」と自分の都合でこねくり回す しかし、それも全部、阿弥陀さまのおはたらき このいま救いますよ!とのおはたらき。聞こえませんか? 聞こえるといっても、五感でいう声が聴こえるのではあり…
南無阿弥陀仏がこのいまも響いている ふと我にかえるとそこに南無阿弥陀仏がある 死にたくないないけど、死んでも還るところがある 大安心です。まことにありがたい 南無阿弥陀仏としかいいようがありません なむあみだぶつ なむあみだぶつ