手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

大安心  〜不思議に肩が軽くなる〜

 死ぬのは嫌だと思って死んでいく人は、お先真っ暗です。信心のない人は、自分が死んでどこへ行くのか決してわからないはずです。ゴッホと別れてタヒチ島へ行ったゴーギャンという画家がいますが、彼の有名な作品に「われわれはどこから来たか  われわれはどこへ行くのか  われわれは誰なのか」という題の絵があります。これは、人間存在そのものの大きな謎を万人につきつけた言葉です。人間ならこの謎をつきつけられたら平気でいられるわけがないのです。心配でならないはずなのですが、それにもかかわらず忘れるか、忘れたふりをして生きているのです。そんな気味の悪いことを考えるのはやめておいて、もっと希望を持って前向きに行こうとか言って、この問いはどこまでも私たちを追いかけてきます。他人から出される問いではなく、自己自身の内部から出てくる問いだからです。ところが仏法を聞いたら、この問題は私が解決する前に、阿弥陀さまがとっくに解決してくださっていたということがわかるのです。私たちがお浄土に生まれるということを、私たちがお浄土に生まれるということを、私たちが生れてくる前にちゃんと決めてくださっている。その答えを聞いて初めて、私たちは安心できるのです。それ以外に安心する方法はありません。
 歳をとって何もかもわからなくなってから安心できるかと言うと、そうでもないようです。これを解決できるのは、人間でなく仏さまだけです。阿弥陀さまは私たちに代わって、私たちがこの世に生まれる前に、これを解決してくださっているのです。私たちが、如来さまと同じ無限の命に生まれて仏になるようにしてくださっているのです。とっくの昔にそうしてあると阿弥陀さまがおっしゃる言葉が、南無阿弥陀仏の名号です。
 この大安心にどのようにしたら(どのようになったら)入れるかというと、我を忘れて阿弥陀さまにまかせた時に入るのです。これを「信心決定」と言います。名号を聞かずに安心することはできません。信心を得たら、私はお助けいただくのだという喜びが湧きます。不思議に肩が軽くなるのです。
【生命還流 浄土和讃を読む 下  大峯 顕 本願寺出版社 P319〜P321より】



臭い物に蓋をしろ的発想では、なんの解決にもなりません。
いま・わたしが・ここに、生きている現実にもっと目を向けていきたいものです。
このシリーズ(三帖和讃講話:大峯 師)は、今回の生命還流(6冊目)をもって完了です。これ程までに、『浄土真宗の信心』について非常に分かりやすく書かれ、散りばめられた書籍はあまりないように思います。
拝読する方の視点にも依りますが、(少なくとも私においては)非常に共感できるところが多々あります。南無阿弥陀仏が響いています。
今日もなもあみあだぶつ



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