手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2016-01-01から1年間の記事一覧

自然の道理

(歎異鈔 第十章の)冒頭に「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき」とあります。「無義をもつて義とす」というところが、ちょっと難しいようですが、無義というのは人間の理智で考えたような理由や意味がないということで…

助からないものが助かる

よろこびもおろそかでお浄土へ早く参りたいとも思えないのは、私に信心が不足していて、まだ弥陀の本願に出会ってないからではなくて、私の中にさかんな煩悩があるせいだというのがわかりました。それでは、その煩悩があるんだったら助からんのかと言えば、…

信後の立場

来世は仏にしていただくに決まっているという本願を聞かせてもらったら、本当はよろこぶべき筈なんですね。ところが、そのよろこぶべきことをどうしてもよろこべないのがわれわれの悲しい現実である。往生まちがいなしと聞いてもうれしくて、天に躍り上がる…

お念仏は交流です!

私は子どもの頃のことを、覚えていますが、まだ小学生の頃、門徒の人が庫裏へ用事があって来られて、帰る時「ちょっと本堂にお礼をさせていただきます」と言って帰られたことがよくありました。お礼ということはサンキューでしょ。いただいたものに対してあ…

聖教よみの聖教よまず

いつも思うことですが、お聖教は読みさえすればすぐわかるというものじゃないんですね。お聖教にこう書いてあると言っても、書かれてあることを読む私たちの側にいろいろと問題があるわけです。つまり、心にみな我見をもってますから、お聖教の言葉の「無我…

称名念仏の源泉

つまり、私の口に称名が出てくる一番の源泉はそもそもどこにあるのかというと、如来様の本願にあるわけです。凡夫の心が念仏の源泉ではありません。発信地が凡夫の心でないということに思い定まったことが信心ということなんです。発信地と言わず根源と言っ…

竹の幹の中にいる虫

横超という他力の道を昔の人は竹の幹の中にいる虫にたとえています。竹の中に一匹の虫が棲んでいて、何とかしてこの竹から外へ出たいと思っている。ふと上を見たら節がある。そこでその節を自力で食い破ってその上へ出る。しかし、その上にもまたもう一つ節…

念仏の人

やっぱり人間というのは本当に、普通の人がよろしいようです。今度お浄土へ行けるとありがたがって飛び上がっている人がいたらちょっとこれは要注意ですね(笑)。凡夫は、お浄土に参れると聞かされても何かあまり嬉しくないけれども、それでは心配している…

根本問題の解決は仏法に説かれてある

どれだけ花の名人と言われていても、死んでお骨になってしまったらそれまでです。お骨になってもまだお花を生けているということはないでしょう。この世の命、娑婆世界のことは間もなく終わりますね。学問や企業の道やお花やお茶の道をどんなに究めたって、…

お念仏を称えるのは至って自然な流れ

この個人の私よりもっと大きなものに、この私があらしめられていたんだと知らされること、広大無辺の力の中にある小さな自分の位置を発見すること、それが仏法の本質です。広大無辺な如来様のお力が働いている世界の中に、この私も許されていたということ、…

力(りき)む人

だいたい、固く信じて疑わないとか、確信とかいうのは実は疑いの変形にすぎません。もし、御主人に対して奥さんが、「私はあなたを信じていますけど」と言い出したら、これは奥さんが疑っている証拠かもしれませんね(笑)。本当に信じていたら、「私はあな…

阿弥陀さまの願い

お浄土に生まれたいということは、いかなる個人や個体であってもひとしく持っている普遍的な願望です。人間だけでなく、蝶々や花であろうが、鳥であろうが、蛇であろうが、蛙であろうが、いやしくとも命を持っている存在はことごとく生きたいと願っています…

生死問題

仏教の問題はこの現世だけをどう生きるかという問題じゃないんです。 この世の幸福か不幸かで人間の問題は終わりません。どんな幸せな人生であっても死があります。この世はやがて終わるんです。「やがて」というと、つい遠い未来のことのように思ってしまい…

本当の命のよろこび

人間にとって死ぬことはいったい何であり、生きているということはどういうことであるかは、死は外から見ているだけじゃ決してわかりません。いくら生きていると言っても死んだみたいな人もいます。毎日毎日食べては寝ることのくり返しで、目が覚めているあ…

一つの課題

長生きなんていうことは、人生に生まれたことの本当の目的じゃないわけです。もし長生きが人生の目的だとしたら、人生はあまりにも短かすぎます。長い宇宙の生成からいったらほんの瞬間です。人間同士だけで比べて、この人は七十、あの人は八十とか言ってい…

ただおまかせ

とくに(歎異鈔)第二条の 「念仏は、まことに浄土に生るるたねにやはんべらん、また地獄におつるべき業にてやはんべらん、総じてもって存知せざるなり。」 などはその一例です。お念仏して果してお浄土へ行けるのか、それとも地獄へ落ちるのか、そんなこと…

「ただ信心を要とす」とは、どういうことか

「ただ信心を要とす」ということは、どうする必要もない、どうする必要もなかった、このままでよかったことに気づくだけだ、ということになります。どうする必要もなかった。このままの救い。無条件の救いということです。無条件である。どうする必要もない…

いまが大切

この年の最期の面接で、それまで宗教のことを馬鹿にしていた大橋が、こんな言葉を残していったと渡邉の日誌にはある。 「先生さん、今、起きていることはすべて自分がしたことに原因があるんでしたね。親鸞さんの〝平成業成〟は、今が大切ということでしたね…

南無阿弥陀仏のおはたらき

(歎異鈔)第二章の親鸞のお言葉、ここでは「身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし」と、その「こころざし」という言葉に対して「御(おん)」という尊敬の修飾語が付いている、なぜ「御」がついているかと言うと、「御こころざし」と…

エビデンス

生かされている命。 人間に生まれ、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる、 阿弥陀さまのなせる業(わざ)です。 わたしはというと、阿弥陀さまに、ただおまかせです。 その証拠(エビデンス)が、わたしの口からこぼれるお念仏です。 おかげさまで 今日も …

勇みのお念仏

生かされている命、大事にしたいものです。 遅かれ早かれ、この肉体とも別れがきます。 ある先生は、この人生、それぞれ演じているという表現で話されます。 わたしはというと、その辺のサラリーマンです。 まずは、嫁、娘に、南無阿弥陀仏の身になって欲し…

気づいてみれば、もうすでに助かっていた

「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる」、こういう形で我々に真実の救済が実現する、ということです。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる」ことが、もう助かったことなんですね。念仏もうして助かるのではない。念仏もうして助かるのならば、そ…

お念仏のおこころ

お念仏をよろこぶとか、お念仏を大切にするとか申していますが、そのお念仏とはいかなることなのでしょうか。またさらに率直に言えば、お念仏称えたら救われるとはどういうことなのでしょうか。またさらに率直に言えば、お念仏称えたら救われるとはどういう…

阿弥陀さまにおまかせ

「如来が正覚をとっていて下されます」のご一言。このご一言は、もとはお釈迦さまの仰せ下されたご一言であります。 この正覚(名号、親心)は、私の往生の全体と分からしていただくのであります。 私の気にかかるのは、お助けに本当にふれることです。何だ…

還相回向のはたらき

南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり 『正像末和讃』 【現代語訳】 阿弥陀如来から回向(えこう)された名号(みょうごう)、南無阿弥陀仏のご恩は広大で想いや言葉に尽くせない不思議であり、私が浄土に往生し…

「確信する」という表現

浄土真宗の信心を語る上で、「確信する」という表現に違和感を覚えます。どうしても、自力的な表現に聞こえてしまうからです。国語辞典によりますと、「確信する」とは、固く信じて疑わないこと、固い信念、とあります。自分中心の要素がプンプンします(笑…

仏さまから私に向けられた「はたらき」

「南無阿弥陀仏」は私たちが普段よく口にする言葉ではありますが、実は、阿弥陀さまからの「喚び声」なのです。阿弥陀さまという仏さまが、私たちに向かってきて、じかにはたらきかけてくださっている、そうした方向性を持った「はたらき」なのです。「南無…

普遍的な真理

この世の真理は、お釈迦さまがつくられたものではありません。つまりお釈迦さまが気づかれたとしても、気づかれなかったとしても、この世の真理は存在するものです。ですから民族や国境を超え、時代や場所で変わらない普遍的な真理、それが仏法であるとお釈…

聞法とは

聞法(聴聞)とは、なぜ阿弥陀如来が私たちを救おうとして願い(本願)を起こされたのかをたずね、阿弥陀如来が現にいま私たちを救おうとはたらきつづけていることを受け入れていくということです。 親鸞聖人は「聞」そのままが「信心」であると説かれていま…

救いの瞬間

ただ信仰というものは、確かに自分ではっきり自覚し、「この瞬間に自分は回心を得たんだ」とわかるものもあるでしょうが、一方でいろんなご縁の中で徐々に信仰の道に入り、入信の時はわからないが、気づいたら深く信心していた、という状況もあるわけです。 …