手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

もったいない

すでに届けられている南無阿弥陀仏。 しかし、その南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かずに、 ただ生きるために一生懸命生きていることを、 「宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなもの」(御文章4帖目第3通) と蓮如上人は仰られております。 実は…

無疑

自力の信心の否定が他力の信心であり、無疑といわれる。 無疑は不疑とは異なる。不疑は明日の天気の如く、未現前のものに対する場合である。 しかるに無疑は「往生のさだまりたる証拠」の現在完了を場とする。ここには自らの概念思辯のはたらく余地はない。 …

麦わらのルフィー (ワンピースより)

すでに南無阿弥陀仏は用意されている

私たちが生きていくうえで密接に関係しているのが、お金であり、健康であり、家族であり、地位であり、名誉であり・・・そのほか挙げれば切りがありません。 このことに異議を唱える人はいないと思います。 でも、それ以上に密接に関係しているのが、 実は、…

動物園 (ZOO:ズウッ〜) 

布教

布教とは仏徳讃嘆である。何も自分の学問研究を発表するものでもなければ、社会政治などを論ずるのでもない。 ただ弥陀如来のお慈悲の広大さと、その救いの確かさを告げて、同朋同行とともにその救いを慶んでいくのである。 したがって布教内容もその救いが…

チューインガム

真宗の信心

真宗の信心は、確信とか、自覚とか、体験とか、信仰とかいう言葉では表されない信心であり、領受の信でありますから、「タノム」とか、「まかす」とか、「安心」とかいう言葉で示されてあるのです。 つまり「会う」の信心でなく、「遇う」の信心であります。…

真宗の信心

真宗の信心は、ながいこと聞いてできるものではない。 真宗のお聞かせは、なりたいとか、なろうとかする自分の計らいの気持ちをすっかり取ってもらうのである。 聞いてわが心をかためてゆくのではない。むしろ、かためようとする心が計らいであるから、その…

名号のお仕事

助かるとか助からんとかは名号のお仕事である。私の仕事ではない。 私は解決されたお助けを聞かせていただくばかりである。 【真実の信心を獲る 加茂仰順和上隋聞記 平田聞思[編者] 探究社 P118 加茂仰順和上の法語より】

自ら拒絶

平生業成とはこの私の今ここに存在している場の外に往生の決定する場はあり得ないことを意味する。何故であろうか、勿論、浄土真宗の第一前提である本願成就がより先になっているからである。 それは具体的にいうと救いの法が自ら求める先に既に与えられてい…

水源地から蛇口まで

如来は慈愛をもってつねに私に接したもう

如来は私を忘れたもうことはありません。 私はいくら如来をきらいましても、如来は私に向かって近く接してくださるのです。 私はにげたい、にげたいと、あがきましても如来は近づきたいと思われますもので、私はどうすることもできません。 如来がただ思って…

ほんとかな〜

阿弥陀仏の本願を ほんとかな〜と計らったり 仏さんはウソをつかないといわれても ほんとかな〜と疑ったり 自分に向いていてはダメなんですね。 遅かれ早かれ、その疑い、計らいはとられちゃうんですけど。 このいまに越したことはないですよね。 阿弥陀さま…

必ずといっても

世間で使われている「必ず」という言葉は、本当の意味では必ずではありません。 現実、結構、裏切られています(笑) かつて、「インディアン 嘘つかない!」という言葉が流行りましたが、 インディアンも人間ですのでウソをつきます。 それに対して 阿弥陀…

インディアン

はからい

如来さまが救おうと言われているのに、「私は落第だ、だめな人間だ」というのもはからいなら、逆に「私はこれでお浄土まちがいない」と自分で自分を採点して安心するのもはからいというものである。 その二つのはからいを丸ごと捨ててしまって、ただ「お前を…

他力回向のほうが先

浅原才市はじつにデリケートな言葉遣いをする詩人で、一字といえどもおろそかにしていない。 「あなた私で、私もあなた」と言って、「私あなたで、あなたも私」とは言わないのである。 「あなた私で、私もあなた」と、どこまでも阿弥陀さまの他力回向のほう…

あなた