2011-09-01から1ヶ月間の記事一覧
【原 文】 ことにもつて、この世界のならひは老少不定にして電光朝露のあだなる身なれば、 いまも無常の風きたらんことをばしらぬ体にてすぎゆきて、後生をばかつてねがはず、ただ今生をばいつまでも 生きのびんずるやうにこそおもひはんべれ。 あさましとい…
あるとき立ち寄られた上人が、蔵のなかで糸を紡(つむ)いでいた「およつ」に、「お念仏が喜べるか」と尋ねられると、彼女は「こうして糸を紡ぎ紡ぎ念仏をもうしております」と答えました。 すると上人は「それならば、いっそのこと、念仏を申し申し糸紡ぎを…
〈つむぎぐるま〉〈つむぐるま〉とも。 スピンドル(錘)を回転させる大きな車を備えた紡績装置。 インド起源といわれるが,14世紀ごろ欧州で使われたジャージー紡車は,片手で車を回し他の手で糸を延伸,加撚し,紡績と巻取を交互に行った。【百科事典マイ…
煩悩具足の凡夫に願行具足の南無阿弥陀仏。 まるのみです。
ときに、「たまわりたる信心」という表現は、「信心」は何かの物体(モノ)ではないのか。その物体(モノ)を阿弥陀さまから賜るのではないか、と誤解を招く懸念があります。 もし、信心がそのような物体(モノ)であるならば、私の方から信心をつかみにかか…
通常、「ドラゴンボール」と言ったら、作品名か「地球のドラゴンボール」を指す。 7つ集めると神龍(シェンロン)が現れどんな願いでもかなえてくれる不思議な球。 色はオレンジ色で大きさは野球ボールくらいである。 【ニコニコ大百科(仮)より】
一般に用いられる確信的な信をだれしも信心とか信仰といわれる。この確信的な信は全く疑いの反語である。 しかし、宗祖の上では一般の常識的に考えられている確信が疑の領域に属するのである。 というのは自力の信心のことをいうからである。 自力の信心が宗…
子どもは自分の親に育てられている恩というものを 知らずに育ってゆくのであります。 もし、そんなことを本当に知っている子どもがいたとしたら、 それは子どもらしくない奇妙な子どもだと 言わなくてはなりません。 子どもである限り決してわかることのない…
この人生は生まれて死んだらそれでおしまいだと、そんなことを思っている人はどこか頭が硬直しているんでありましょう。 いくら若いといっても頭が老化しているのです。ところが、仏法を聞いている人は頭が軟らかいと思います。それは、仏様が軟らかくしてく…
ご信心の人は、浅ましい悪人凡夫でありながら、どこか如来様と溶け合うのです。 こういうことはあんまり、最近のお説法では言われないようですけど、真宗史で妙好人といわれる人々はみな、日常体験の上でこの溶け合った世界を生きていたのです。 たとえば、…
南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまから賜るものです。 あくまでも阿弥陀さまから賜るのであって、 私から、南無阿弥陀仏をつかみにいくのではありません。 つかみにいったところで、つかめるはずもありません。 南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまからの一方通行のおはた…
阿弥陀さまの相手は私であって、あなたでも、彼でも、彼女でもありません。 この私です。
親鸞聖人は、先の「その名号を聞いて信心歓喜する……」との本願成就文について、『教行信証』(「信巻」)に次のように説明しておられます。 経に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなわち本願…
自分から合わせる必要はなく それ以前に、合わせられるわけもなく 阿弥陀さまが、私に合わせてくだされるのです。 ですので、わたしは、着飾ることもなく、そのまま、阿弥陀さまにおまかせです。 こんな楽なことはありません。 なむあみだぶつ。
信心は、お浄土行きの切符ではありません。 信心は、そのようなモノではありません。 「聞こえたままが信心」です。
どんなに教学を熱心に研究しても、信心がなかったら決してお浄土へは参れません。 助けると言って下さる如来様の言葉を真受けにしなければだめなのです。 真受けというのは、丸ごと、そのままに受け入れるということです。如来さんはああ言うておられるけれ…
私の趣味はマジックです。 ここでひとつ、いつも披露している手品を紹介しましょう! あらかじめAさんに、予言のカードを入れた封筒を渡しておきます。 では、いまからマジックを始めます。 ここにトランプがあります(52枚:ジョーカー含まず)。 弾いてい…