手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2018-06-01から1ヶ月間の記事一覧

「ありがたい」というのは

他力大慈悲の本願である光明の御徳を聞いて、なお他力信心の発(おこ)らない人、すなわち自力信のひとは、如来をたのむ心を常に発そう発そうと心懸けて、そして御念仏を忘れぬように、称えよう称えようと絶えず努力するのであります。つねに努力しますけれ…

不断光

如来を不断光仏と申しあげることであるが、それは如来の光明が、わたしどもをご照護下さるのには、その光明は常恒であって、断絶なさることがないのであります。光明遍照十方世界の光明は、過去世より今日今時にいたるまで照らしづめであって、絶え間がない…

仏は何処に

「仏はいずこに」と仏を尋ねる心がお互いにありますが、仏はこれを遠くに探し求めても会えるものではありません。南無阿弥陀仏という名声の聞えるところ、そこにますますことを知るべきであります。名号によって仏に会うのであります。名号すなわち仏であり…

お念仏

「念仏」は人間が起こすところの修行ではない。なぜか。その理由は、「念仏」が阿弥陀仏の工夫になる「行」だという点にある。「わが名を称せよ」という要請は阿弥陀仏が設けたことである。人間が成仏の手段として開発、発明したことではない。もっぱら阿弥…

阿弥陀仏の本願と念仏の関係

親鸞聖人が本願と念仏の関係、念仏と私どもの関係を最も深く知らしめんとして、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と申…

極論の効用

法然、親鸞の時代では、人は源信がいう「妄想」のかたまりだ、ということを聞けば、「なるほど私は愚かで妄想のかたまりそのものだ」と頷いて、そうした凡夫に注がれている阿弥陀仏の本願の意味が身に染みるように理解できたのであろう。しかし、現代では人…