手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2018-01-01から1年間の記事一覧

自己顕示欲

『南無阿弥陀仏』のことを多くの方に知ってもらいたい、という思いがある中で、 このブログを続けていられる原動力のひとつは自己顕示欲なのかなぁ〜、と思っているこの頃です。「雑毒の善」ではありますが、されど「雑毒の善」です。自分の都合がよいように…

言葉は語る

平成最後の年末となりました。 私にとって、この1年は、「言葉の力」を実感した年でもありました。日常生活において、いかに言葉(文字)を用いて相手に伝えるか、をテーマとしてきました。「言葉は語る」といわれた大峯 顕(おおみね あきら) 師の言葉が…

感謝の日々

未来が不安ということは、いまが不安ということです。 未来が明るいということは、いまが明るいということです。たとえ生活が苦しくとも。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

「世間の人は」と言って、一段上にいた私

以前のわたしはといいますと、世間一般人とは違う選ばれし者だと思っていました。しかしながら、それは大きな間違いだったのです。阿弥陀さまからみれば、みな同じ者でした。わたしもその辺の世間一般人のひとりであったのです。そんなことは当たり前のこと…

生死問題を考える(生死一如)

殊に人間には、生の欲求と必然の死の襲来との矛盾に対する解決、また生と生との願いの衝突に対する解決が必要となってきます。人間の必然的な欲求のさしとめられたところに、ある何ものかが本能的に出にゃならん。それが智慧であります。智慧の光に照らさな…

「信は即ち念、念は即ち信」

正信と念仏とは信と念です。これは『倶舎論』で心所(しんじょ)の研究をするときに、信と念とを別々にするのであります。また、八正道といって仏道修行の正しい行を示すところにも、正信の他に正念をあげてあります。この二つは違った心の働きであります。 …

一寸先も光

人生、一寸先は闇といわれていますが、皆さんはいかがでしょうか? 南無阿弥陀仏の人は、いうならば、一寸先も光なのです。浄土参りが確定しています。ですので、寿命尽きるまでの生活の根底には安心があります。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

雲泥の差2(受けとり方の違い)

石川県の藤原正遠作の一首が想起される 。 念仏に自力 ・他力の別が説かれるのは 、すべて人間からのかかわりかたによることであって 、念仏そのものに自力 ・他力の別があるはずはない 。いまの一首からわたくしは 「出る念仏 」と 「出す念仏 」の違いを教…

雲泥の差1(受けとり方の違い)

本日の青森市は大雪です。 雪かきをしても、次から次へと降り積もります。この期間は、ジョギングができない代わりに雪かきで体力づくりをしています。ですので、私にとって、中途半端な積雪よりドカッと降り積もってもらった方が嬉しいです。但し、想定外の…

南無阿弥陀仏となって

阿弥陀さまはどういう視点でいわれているのか、と阿弥陀さんと対話しながら生活していくことの意義は大きいですね。 阿弥陀さんとの出遇いがない人生は、まさしく、糸が切れた凧です。制御不能です。自分まかせの人生、結末は目に見えています。 対して、阿…

出遇い

出会いがあれば別れがあります。そんなことは誰でも分かっていることです。しかしながら、阿弥陀さんとの出遇いには別れはありません。果たして、そのことを知っている人はどれだけいるのでしょうか。

涙流しながらの自慢

自分はとてもひとさまの前に顔を出せるような心ではないといって、利口ぶって反省をしておるというような姿を見せるのも自力だといわれるのです。私はこれがいちばんきついと思います。わが身を頼むとか、わが力を頼むとか、わが心を頼むとかいうほうは、い…

あほうどりさん のこと

先日、Kさんから送って頂いた「あほうどり記」を読みながら懐かしんでいます。娘がまだ小学5年生の頃と記憶しています。マイケルジャクソンがこの世を去った少し後の時期でしょうか。あほうどりさんと弟が、日本海(寝台車)に乗ってはるばる富山から青森ま…

言葉のはたらき

語られた言葉 われわれの学者のなかには、書記言語、すなわち「書かれた言語」にしか意味を認めない人もいます。しかし、本当に重要なのは「語られた言葉」です。なぜなら、そこには言葉だけではなくて身体的なものが全部ひっくるめて存在しているからです。…

試行錯誤

時代にあった表現方法で、南無阿弥陀仏を伝えることはとても大事なことだと思います。そうしませんと、本来、伝わるべきことも伝わらないケースが少なからずでてくるのではないでしょうか。まずは、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂くことが先決です。…

つもり君、つもりさん

長い間仏法にかかわって生活をしてきておればおるほど、わからんものもわかったつもりで通り過ぎていってしまうのです。そして人が質問すると、そんなことがまだわからんのかといって、自分がわからない部分を隠してしまうということがなければいいのですけ…

タイムリミット

いずれ死んで逝くと思うと寂しくなりますが、皆さんはいかがでしょうか。 時は確実に流れています。残された時間は誰もわかりません。いまかもしれません。ひとりでも多くの方に、南無阿弥陀仏のはたらきに気付いてもらいたい、です。 仏法ひろまれ 〜 響け〜…

灯り

ひとりぼっちって寂しくないですか。 遅かれ早かれ家族とも別れがきます。 阿弥陀さんと共に歩む人生は、寂しさの中にもほんのりと灯りがともっています。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

分岐点

人間界は分岐点です。 南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか否か、で行き先が全く違います。 皆さんはどちらへ行かれますかね。 迷いの世界ですか。 浄土ですか。 チャンスは今しかありません。

私の口癖

江戸時代だったら、もうおらは死んでるなあ〜 でも、南無阿弥陀仏となって、ここにいるけどね。 いつもの如く、嫁は「あんたはアホか」(笑)

はからい

浄土真宗でいう「はからい」という言葉は、阿弥陀さまの専売特許です。 ですので、「わたしのはからい」は糞の中の糞なのです。

常例布教(築地本願寺:聞法ホールにて)

南無阿弥陀仏のはたらきを知らされずして終えていく人生は「むなしい」の一言です。いま・ここで・私が、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、そこのところは最重要ポイントです。 本日の先生の法話は心に響きました。話も面白く、声のトーンも抜群…

人生百年時代 どう生きるか  ※投稿文

「死はいつか来るものではなく いつでも来るものなの」という言葉を残して、先日この世を旅立ったのは樹木希林さんである。彼女をはじめ、今年も多くの有名人がこの世を去った。このことは、有名人に限ったことではない。朝刊のお悔やみ欄に名前が載らない日…

しあわせもの

こうやって今、南無阿弥陀仏のことを書かせて頂けている私は幸せ者です。生きてよし、死んでよし。 ただただ南無阿弥陀仏。

時は静かに流れる

諸行無常、残念ながらこれ現実です。 しっかり受け止めて生きていきます。 娘ももう二十歳。私も歳とったなぁ〜。 嬉しい反面悲しい。 南無阿弥陀仏があって本当によかったなぁ〜と思えるこの頃です。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

いま・ここで ・私が 南無阿弥陀仏

こんなことを書くと怒られるかもしれませんが。私自身、もう死んでもよい、とも思っています。嫁にそんな話をして叱られていますが(笑)。勿論、今後も生きれる限り渋とく生きて行きますけど。何が言いたいかと申しますと、人として、この地球上に生まれ、…

他力本願

たとえば、善根功徳(ぜんごんくどく)を積むこと、修行に励むこと、数多く念仏に勤しむことなどが問題とされるようになっていった。本来ならば、極楽に生まれさせることを手段として、無上涅槃という目的を実現させようとする。これが阿弥陀如来の本願であ…

私の善知識

南無阿弥陀仏のはたらきに気付かさせられて、かれこれ9年経つでしょうか。 私の善知識は、今は亡きアホウドリさんであり母であり弟です。生きてよし、死んでよし。私の人生悔いなし。阿弥陀さんにただ感謝しかありません。 アホウドリさんは、いまは南無阿…

人生百年時代

周りから、マジックバカといわれている私です(笑)。 結局のところ、「私が生きること」についてクリアにならなければ、本当の安らぎはない、と思っています。昨今、人生百年時代といわれていますが、皆さんはどう生きますか? 刹那主義的生活になってはい…

言葉の力

私のテーマは「言葉の力」でいかに物事を伝えるか、です。南無阿弥陀仏についても然り。面と向かって相手と直接話すことは最も効果的かと思います。 ときに、言葉という活字を通して、伝えることがより相手に響くこともあると思います。今後も試行錯誤して言…