手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2017-01-01から1年間の記事一覧

可視化

「サービス」の特性について下記のように述べられています。 『サービスは本質的に物質として存在せず、実体として可視的な有形物ではない。そのため、もともと実体のない無形的な「サービス」を、シンボル、ロゴマーク、看板などにより、可視化・有形化する…

還 相

『華厳経』の偈には、 「ひとたびほとけを目にすれば 悪の障りは消えるだろう」 と歌われている。一度見るだけでもこれほどなのだから、まして常に仏を目の当たりにしている極楽の人々は、何ものに対しても固執することなく、自由自在に行動できる。 すべて…

阿弥陀さまは、偉大なマジシャン

私の趣味はマジックです。マジックに魅了されてから、15年以上が経ちました。マジックはコミニュケーションツールとしても一役買ってくれますので、人間関係構築という視点からみましてもメリットは非常に大きいです。 マジックといいましても、いろいろな…

浄土真宗の信心

「信心、信心」といっても、浄土真宗の信心は、一般の人々が考えているような、自分でつくりあげる、自分で信じようとする信心ではありません。それは如来より与えられた信心、つまり如来の真実心をいただいた信心をいうのです。信心を如来さまからいただき…

拠りどころ

普通、私どもは自分の判断でことに対処するといいます。自分の判断とはしょせんそれは知識によるものですから、自分でよいとか悪いとかいうのも、結局とらわれになってしまいます。ところがそうではなくて、すべて阿弥陀仏に立ち戻って考えるということは、…

津国郡家の主計(つのくにぐんけのかずえ)

津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。人は口はたらかねば念仏もすこしのあひだも申されぬかと、こころもとなきよしに候ふ。 【蓮如上人御一代記聞書(62)】 ※津国郡家の主計:摂津…

称名念仏

「無行不成」とは、行として成ぜざるはなし、つまり凡夫のなす往生浄土の行を、すべて阿弥陀仏が代わって成就されたということ。それが実は他力回向の名号であり、われわれの口に称えられる称名念仏なのだというのです。 ここから蓮如は「憶念称名積みありて…

コペルニクス的転回

君は、コペルニクスの地動説を知ってるね。コペルニクスがそれを唱えるまで、昔の人はみんな、太陽や星が地球のまわりをまわっていると、目で見たまま信じていた。 これは、一つは、キリスト教の教会の教えで、地球が宇宙の中心だと信じていたせいもある。し…

本願他力に生きる人

「他力の人」(本願他力に生きる人)というと、かならず依頼心の強い人、他人まかせの人といったレッテルが貼られたりもします。特に「他力本願」という語は横着者の代名詞のようにもなっています。ほとんどの辞典に「目的を達成するために他の助力をまつこ…

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ

「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といわれているとおり、どこまでも仏法を主とし、世俗のなかを生き抜くことによって、浄土真宗をご再興していかれたのが、蓮如上人の生涯だったのです。 仏法とは、阿弥陀仏の本願を信じて念仏し、生死を超え、愛と憎…

感応道交

感応道交(かんのうどうこう) 仏と人、また教えるものと教えられるものとの気持ちが通いあうこと。衆生の機応と仏の応化とが相通じて融合すること。 【広辞苑より】 今回はいつもと違った試行で紹介します(笑) なんと、手品でトライしました(驚) おかげ…

念仏者の生き方

阿弥陀如来の本願が、信心となって私の上に届いているということは、如来の智慧と慈悲が私を内側から導いてくださることを意味していました。信心の行者は、まずこうした尊い徳を頂戴しているものでした。しかし、その徳にふさわしい生き方をするどころか、…

自分本位

「七仏通誡偈」には 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 (もろもろの悪を作〔な〕すことなかれ、すべての善を奉行せよ、みずからその意を浄〔きよ〕くす これ諸仏の教〔きょう〕なり)と示される。このような考え方の基礎となっているのは、「善因楽果・…

思わんようになる

浄土真宗は「そんな旨い事あるかい」「そんな馬鹿な事あるかい」と言うて、禅宗の人なんか言うとるわ。「『行』も積まず、『願』も起さず、『善』い事も一寸(ちょっと)もせず、三毒の煩悩、八万四千の業を煮やして居りながら、一編に『閉眼絶息の夕べには…

南無阿弥陀仏

「南無阿弥陀仏」についてお話ししましょう。「南無阿弥陀仏」は、六字の名号(仏の名前)と呼ばれます。名号を称えるのが「称名」です。仏の名を称える、という形態は仏教の初期からありました。「南無」はナマス(namas)というサンスクリットの言葉に漢字…

理性や知性ではとどかない領域

念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。 (歎異抄 第十条) (本願他力の念仏においては、自力のはからいがまじらないことを根本の法義とします。なぜなら、念仏ははからいを超えており、たたえ尽くすことも、説き尽すこと…

ありのままの姿とは

仏教では、私たち人間が自分中心的に自分のものさしで物事をはかり、思い通りにしようとするあり方を分別智(ふんべつち)といいます。世俗において、「分別」という言葉は、世事に関して常識的で慎重な考え、判断する能力を指す意味があり、社会生活を営む…

「知る」と「智る」の違い

万有引力という理を認識する方法には次の二つがあります。 ①目の前で落ちるある物体の落下を観察し、分析して引力の法則を記号と数式とで表して理解する。 ②どこか高いところから飛び降りて、自らその引力を体験する。 同じ「引力」という言葉でいわれる「も…

アリから人間は見えない

80歳近い男性の方の思い出の話です。小学生のころの夏休みのことです。庭で、アリが行列をつくって物を運んでいるのを、おもしろくてジット見とれていたら、急に夕立が降って来ました。滝のような雨に屋根から落ちて来る雨水が、アリの行列に襲いかかって…

生死一如(しょうじいちにょ)

私たちの分別というものは、それを対象化して実体化します。生は生。死は死と。そこで今自分は生きている。これが何十年先までも生きる。そうするとその間が生だ。そして、その先に死というものがやってくる。こう対象化して考えているわけなのです。 でも今…

大きな世界

私たちは、阿弥陀さまの真実のはたらきの中に包まれ生かされているにも関わらず、それに気づかず、真実に逆らう生き方しかできていないのです。常に自己中心の心から離れられず、「自分が、自分が」という小さな世界を創り出し、その中で、他人を傷つけ、自…

真実信心(他力の信心)

親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗の法義においては、往生成仏の正因をそのまま信心とするものであり、ただ信心のみによってさとりに達することができるので唯心独達ともいわれ、信心はことに重要である。 時代も越え、人の資質も行を修した長短さえも問題と…

他力の信心

信心とは、本来、思いや心をあらわす言葉ですから、私たち衆生の、信じて疑わない心のことをいっています。何を信じて疑わないかというと、阿弥陀仏の救いを信じて疑わないことであり、それはいい換えれば、浄土に往生できることを信じて疑わないということ…

信心といっても

信心といってもそれは、「汝(なんじ)を引き受ける、助ける」との仏の仰せ一つがそのつど実感的にまことと有難く感じられる外にはない。信心を自分の心に確かめる必要もないので、信心を得たということを意識することもいらないのであった。 【佛に遇うまで…

口から耳、これだけ

「土井さん、口から耳、これだけやで」といわれた。その時、私はその意味が分からずに帰ったが、今になってそれは、口に称える念仏が耳に聞こえているそのままが、弥陀の仰せが聞こえている、そのほかに信心はないという真宗信心の肝心かなめを指摘されたの…

歎異鈔

日本社会では、特定の宗教集団による強引な勧誘は盛んであっても、宗教とはなにかについて、まとまった知識を身につける機会が少なく、したがって宗教の中身がはっきりしないまま「無宗教」と称している場合が多いようだ。もしそうならば、宗教に関する知識…

善知識も同朋の一員にすぎない

問題は、集団が堕落していようがいまいが、私が自らの救済をどのように実現するかであろう。私の「生死からの出離」を実現するうえで、どうしても堕落した教団が邪魔だとなれば、それから離れればよい。教団とは無縁の救済論も存在するのであるから。 大切な…

宗教と道徳の違い

本願念仏においては、信心が問題となるのであり、善悪は問題とならない、ということがくり返し述べられている。それは、『歎異鈔』を貫く根本テーマだといってよいだろう。別の言葉でいえば、『歎異鈔』は、道徳の書ではなく、宗教の書だということである。…

真実を覆い隠す蓋

阿弥陀仏の願いに出遇いながら、それを自分のことでないように横に置いておき、さとりを求める心をどのようにおこしたらいいだろうか、浄土に生まれるにはどのように行いを清く正しくしたらいいだろうかなどと考えることは、悲しむべき自力の執着心であり、…

ギュギュッと凝縮

親鸞の理解によれば、阿弥陀仏自体が、真理が人間のために仮に姿をとったもの、なのであり、阿弥陀仏の本体(法性・真理)は、人間の認識を絶しており、言葉でも理屈でも感覚でも捕まえることはできない、まったく人間とは隔絶している。だが、その絶対的な…