手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2021-05-01から1ヶ月間の記事一覧

阿弥陀さま ⇒ 私(私は受ける側)

私たちは普通、阿弥陀が救済の糸を垂らして、それを掴むのは私たちの努力ないし力であると考えます。しかしながら真宗においては、私たちがもともと自分に属していると考えるその力は、まったく自分たちのものではなく、阿弥陀から来ているというのです。私…

南無阿弥陀仏につつまれて

南無阿弥陀仏のある生活は、やっぱり、ほっとします。みな、1日1日、一生懸命生きているわけですが、南無阿弥陀仏を知らないで終える人生は無意味ですね。やっぱり、そう思います。南無阿弥陀仏があって本当によかったな、と思うこの頃です。 おかげさまで…

呼応する

阿弥陀さんが「南無阿弥陀仏」と称えよ!と、おっしゃられますので、 わたしは、「南無阿弥陀仏」と称えます。ただそれだけのことです。 至って自然なことであります~。そこに私の計らいなんぞ微塵もありません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

阿弥陀さまと私の距離

「阿弥陀さまは(私に)寄り添っておられます」という言葉をよく法話(浄土真宗)で聞きます。阿弥陀さまと私の間に距離はない、ということです。私が、そのことに気付かないだけなのです。 蓮如上人は、以下のようにいわれました。 「当流真実の信心に住し…

コミュニケーション 「人と人(私)」と「阿弥陀さまと私」の違い

言葉を、コミュニケーションを取るための道具と考えるならば、言葉を発する側と、受け取る側がいることが前提となる。「伝わった」という状況は、この両者、つまり、話す側と聞く側や、書く側と読む側の共同作業によってもたされるのだ。 とはいえ、聞く側や…