手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2017-04-01から1ヶ月間の記事一覧

散る桜 残る桜も 散る桜

弘前公園外堀(弘前さくらまつり) H29.4.27撮影 江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。意味は、「今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。そのことを心得ておくこと。」というように受け取…

信心は仏心である

親鸞聖人は、信心、すなわち無疑心のことを、「信文類」では、しばしば「疑蓋雑わることなし(ぎがいまじわることなし)」とか、「疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)有ること無し」とも言い表されています。「蓋(がい)」とは、覆い隠すものという意味で、一般的…

ボタンの掛け違い

南無阿弥陀仏の「いま」のはたらきに対して 「そのうちなんとかなるさ」というわたしの甘い期待や思いが、噛み合う筈はありません。 こういうことを、ボタンの掛け違い、というのでしょう。(ボタンの掛け違いは)見た目も変です。 「いま」のはたらきに「い…

身体は、しばらくの借り物

ある先生が、この人生それぞれが演じている、といわれていました。 男性、女性、日本人、西欧人、高身長、美人など人それぞれです。職業でみましても、医者であったり、弁護士であったり、芸能人であったり、会社員であったり、自営業であったり、と様々です…

ただおまかせ

阿弥陀さまに「ただおまかせ」といいましても 自分から「おまかせする」のではありません。 阿弥陀さまより「おまかせさせられる」のです。 誤解がないようにしたいものです。 ただおまかせは、(わたしは)阿弥陀さまに、おまかせ状態ということです。 その…

空っぽ(その2)

信心といいましても空っぽです。 色も形も匂いもありません。 しかし、不思議なことに南無阿弥陀仏とお念仏すると具現化されます。 智慧のない私に、6文字の名号をもってして知らしめてくれるのでした。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 空 箱

空っぽ

信心といいましても空っぽです。 ですので、自分から(信心を)獲りに行っても獲れるはずもありません。 信心獲得(しんじんぎゃくとく)と聞きますと、自ら何かの物体を取りに行く、と想像しがちですがそうではありません。最近の聴聞や書籍においては、南…

私の基準って?!

実は私たちは、親鸞聖人のおっしゃるように、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」としかいえない立場なのです。善悪など私たちにはわからないのです。本当の善というものは「如来の御こころ」にあります。(略) ところが、残念なことに、私たちは「…