手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまのお育てにあずかる

 親鸞聖人は『高僧和讃』の曇鸞讃で、我々凡夫の心を氷にたとえ、これに対して阿弥陀さまの大悲の心を海水にたとえておられます。凍っている海水が我々の心であり、阿弥陀を信じない我々の心は凍りついているわけです。我々は、誰もが外から来る敵や障害から自分を守ろうとして、かちかちに凍って固くなっています。けれども氷が溶けたら、我々は仏さまという海水と一体なのです。熔けた心というのは、自分を守る必要がなくなって安心している心です。信心をいただいた人というのは、氷が溶け始めている人ですね。そして、この世の命が終わったとき仏さまになるわけです。それは仏の大海水の中に入り、これと一つになるということです。煩悩の海で溺れていた私たちが、仏さまの暖かい光に遇うと、凍りついていた私の心の自己中心性・自我性が溶かされます。
 それは、煩悩が無くなるということではなく、自我が仏の無我の中に溶けるということです。煩悩が消滅することではなく、透明化されることです。煩悩があってもさわりにならないという不思議です。溶けたら、肩肘を張る必要がなくなりますから自由になるのです。
【 回向される南無阿弥陀仏 大峯 顕 法話集1 生きる苦しみより 響流書房[Kindle版] 】



ここでも言われていますように、
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされますと、
肩の荷がおります。肩肘を張って生きていく必要はありません。
日々、報恩感謝の南無阿弥陀仏(お念仏)です。
「煩悩があってもさわりにならないという不思議です」とあります。煩悩は、ときに、慶び・楽しみのタネにもなります。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のなせる業です。
今日も南無阿弥陀仏