手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまによって自覚させられる

 人間にとって、最後の問題は自己の問題です。信心とは、自分がなくなることではなく、本当の自分になることです。別の言葉で言えば根源的な自覚です。自覚は哲学者たちが好む言葉だといって嫌う教学者もいますが、先ほど名前をあげた4人の偉い先生方(鈴木大拙、曽我量深、金子大栄、西谷啓治)は自覚だと言っています。西谷啓治先生が、「私は哲学の癖でつい自覚という言葉を使ってしまうのですが、信心とは如来さまに助けられているということを本当に知らされることですね」と言ったら、曽我師は「そうです、自覚で結構です」と答えています。お西の教学はまだ自覚という言葉に抵抗があるようですが、それなら宗教と哲学とのどこが違うのかをはっきりさせなければ学問にならないと思いますね。そこを何ひとつ明らかにしないで、ただ哲学用語はいけないというのでは、学問としては通りません
 私たちは、如来さまに自分が助けられるということを知らなければならないのです。何か知らないけど、助けてくだされるらしいというのは信心とは申せません。みんながそう言っているから助かるわけでもありません。信心とは、自己意識よりももっと深い仕方での自覚だと思います。如来さまの方から知らされることです。信心は智慧だと親鸞聖人はおっしゃっています。本当の智慧を与えられたことが、如来さまに助けていただいたことなのです。それを知っているのは、如来さまに知らされたからです。人間に教えてもらったからではありません。
【本当の命を生きる 大峯 顕 法話集2 響流書房[Kindle版] 無明の夜が明ける より】



自覚するのは私(自分)ですが、
そうなさせしめるのは『阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらき』です。
ですので、
敢えて「自覚」という言葉(表現)をもちだすならば、
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきによって、私が自覚させられる、
とより丁寧に言い回した方がよいでしょう。誤解を招きません。
個人的には、「気付かされた」「知らされた」という表現が好きです。
あくまでも、主語は阿弥陀さま、というところが大事ですね。
今日も南無阿弥陀仏。