手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

ここにも、阿弥陀さま

「斜陽館」(太宰治記念館)に行ってきました。 太宰治の生家です。大豪邸(宅地:680坪)に圧倒されました。 とりわけ、黄金に輝くお仏壇に目が行きました。 ここにも、阿弥陀さま、がおられました~ おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 斜陽館:青森県五…

自分に言い聞かせる必要なし

実際、炎天下に身を置いている人が、「今日の天気は晴れですか?」という言葉を発するでしょうか? もし、そんな人がいましたら、頓珍漢な人です。わざわざ、天気を確認する必要はありません。普通は、「今日は暑いな~」という言葉が自然に出て終わりです。…

阿弥陀さまに依る

南無阿弥陀仏が私、私が南無阿弥陀仏。 いうならば、一心同体南無阿弥陀仏。 えらい先生がこういったから。 お聖教にこう書いてあるから。 (あなたの信心はあやしい)と言われましても、・・・なのです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

阿弥陀さまと私

確かに、法話(聴聞)やお聖教は大事です。しかしながら、肝心の阿弥陀さまを度外視しては意味をなしません。まずは、いま・ここで・私が、南無阿弥陀仏のはたらきに気づくことが先決です。「阿弥陀さまと私」「私と阿弥陀さま」が根本にあってはじめて、法…

聞こえたままが信心

換言しますと、 「南無阿弥陀仏のはたらき」に気付かされている、ということです。何の力みもありません。空っぽです。14年前、このブログで投稿した『無疑(稲城 選恵 和上)』を再掲します。 【2010年6月15日投稿】 無 疑 『御文章』四の八にあるが如く…

仏法は聴聞に極まる

「ただ仏法は聴聞にきわまることなり(蓮如上人)」と、いわれます。先人は、聴いているうちに(向こうから)聞こえてくる、という表現で教示しています。「聞こえたままが信心」となればしめたものです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

阿弥陀さまのよび声

我称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れて往くぞの 親のよび声 (原口針水) 心に響く詩です。親とは、阿弥陀さまのことです。南無阿弥陀仏という言葉を通して、阿弥陀さまと私が対話している、ともいえましょう。南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまと私の間を循…

阿弥陀さまと対峙

阿弥陀さまと私の間には、何人も入り混む余地はありません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

生きること、死ぬことについて考える

「出会いと別れ」というテーマついて新聞投稿しました。「彼の死」は、私にとても大事なことを教えてくれました。いまでも、当時の光景が鮮明によみがえります。死にたくないけど、死んでいかねばならないのが人生です。南無阿弥陀仏があって本当によかった…

阿弥陀さまの名乗り

親鸞聖人は、善導大師の「称名正定業」をもう一歩踏み込んで、「本願の名号は正定業なり」と言われています。称名ではなくて名号です。「称名正定業」のことを、あえて「名号正定業」と展開させていくのが親鸞聖人の『教行証文類』なのです。 ではなぜ「称名…

真と偽

以前、加藤唐九郎の焼物の偽物の記事が、新聞紙上をにぎわせていました。専門家でもだまされるほど、本物とそっくりの偽物だったそうです。世の中には手の裏表のように本物もあれば偽物もあるのが常ともいえます。ところで、私たちは、本物と偽物とを峻別す…

生きる意味

高松信英先生が、心理学のマンガの本から次のような興味ある話を紹介しておられました。 中三の男の子が、お母さんに「どうして一流高校へ行くのか」と尋ねた。お母さんは「一流大学に入るために決まっているでしょう」と答えた。また、子どもが「なぜ一流大…

本物が際立ち鮮明になる

1980年代に宗教史研究を始めた我々は、網野善彦による網野史学の影響を受けた方法で研究を行うようになりました。 網野先生は、おそらく日本で初めて偽文書を駆使した歴史研究を行った方です。それ以前は、歴史学において偽文書は「危ない」史料であると…

人生の分かれ目

人生にさまざまな障碍(しょうがい)と挫折はつきものである。この世に生まれてきたかぎり、労と病と死と、愛するものとの別離と、憎しみあうものとの出会いを避けて通ることはできない。誰しも平穏無事な先活を願わない者はないが、平穏無事に生きられるよ…

心は明るい

蓮如さまは、教えられた。「『私は、阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあったから(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたから)もう阿弥陀如来に助けられた者だ』と言うのは、この世で悟りを開いて仏になるという、偉い人の悟りの仏教とまぎらわしいからよくな…

浄土真宗のお念仏

蓮如さまは、「この世の常識の世界では、南無阿弥陀仏の六字の名号を、不思議な超能力を持つ言葉だから、その言葉を仏、菩薩、天人に差し上げて、自分の善き行ないにしようとする。親鸞さまの教えをいただくものは、そうであってはならない。もしこの南無阿…

人は何のために生きるのか❓

浄土真宗に関心のある友人に「死んだ先はどんなところだと思うか?」と尋ねました。「真っ白な世界、無の世界だと思う」と答えられ、「親鸞さまの教えはもっと確かな教えなのにもったいない・・・・・・」と思いました。その後、同じ質問をほかの人たちにも…

人間駅は乗り換え駅

平安時代に地獄の様子をくわしく説いた源信僧都(げんしんそうず)は、六道をグルグル回るうちにたまたま地獄で仏さまにあう機会に恵まれ、一分間の休憩をもらって人間の世界に生まれてきた、といわれています。 《人間に生まれた意味は、まよいからさとりへ…

禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし

大掃除が終わり、疲れてテレビをつけたまま寝てしまいました。 朝の四時半ごろに目が覚めたら、時代劇の「暴れん坊将軍」が放映されていました。世をはかなんで入水自殺をしようと娘を助けた徳川吉宗「『禍福はあざなえる(よりあわせる)縄のごとし』と言う…

お念仏する、といっても

「助けてください 阿弥陀さま」と、お念仏するのか 「助けてくださる 阿弥陀さま」と、お念仏するのか えらい違いです。 【1995年 梯 実圓 師「本願のこころ」より】 ※ 浄土真宗の法話配信(YouTube) 「助けてください! 阿弥陀さま」 →念仏の力を利用して…

今年も変わらず

「南無阿弥陀仏」が精神的支柱になっている生活は、今年も変わりません。日々、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるだけです。 おかげさまで 今年も 南無阿弥陀仏

偉くなっても駄目

どんなに仏教の教えを学んで、知識が豊富になっても、阿弥陀如来の明るい眼(南無阿弥陀仏のはたらき)とめぐりあわなければ、すべて空しいことである。阿弥陀如来の広大な心に文句なしに頭が下がって、初めて明るい人生が歩めるのだとうなずいて、生涯その…

浄土真宗とは

親鸞は言う 浄土真宗に帰(き)すれども 真実の心(しん)はありがたし 虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて 清浄(しょうじょう)の心もさらになし (『正像末和讃』) 親鸞の悲歎である。もし、真宗に出遇わなければ、「わが身こそ真実」と、傲慢(ごうま…

不可称不可説不可思議 ー 思議を超える

【歎異抄第十条】 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。 【語注】 無義をもって義とす 人間の思慮分別を加えないことをもって本義とする意 【現代語訳】 「念仏は、義(はからい)無きをもって本義とする。称…

南無阿弥陀仏とは

蓮如さまは、「南無阿弥陀仏の南無というのは、頭が下がる(帰命)ということである。何に頭が下がるのかと言えば、明るい阿弥陀如来の眼(南無阿弥陀仏のはたらき)に、文句なく頭が下がるのである。また発願回向(ほつがんえこう)というのは、頭が下がっ…

浄土往生の人生

明応二年の元旦に、ご挨拶にやってきた勧修寺の道徳に対して、蓮如さまは、「道徳よ、そなたは、もう数えることも忘れているかもしれないが、いったい、歳は幾つになったのか。人生を空しく過ごしてはならない。道徳よ、本当の念仏を称えなさい。常識的にみ…

ふとお念仏がでる

まだ寒中であるにもかかわらず、木々の芽が大分ふくらんできたようである。この芽のうちに、大自然の働きの一切が集中せられてあることが思われる。 大空を仰いで見ると、太陽はいつものように輝いている。大地はいつものようにしめっている。ほがらかな日で…

時代の新陳代謝 

馴染みの有名人が、毎日のように次から次へと亡くなっています。私も歳をとったものだと最近よく思います。当たり前といえば当たり前ですが、時代は着実に移り変わっています。こんな表現が適切かどうか分かりませんが、「時代の新陳代謝」がこの今もなされ…

南無阿弥陀仏を会得(えとく)

北日本新聞 令和5年10月18日(水)付より 先月、北日本新聞に投書(念仏者の志功に感銘)したのをきっかけに、デジタル版を購読しています。さすが、真宗王国の富山です。浄土真宗関連の記事が多く、楽しんでいます。 現在、富山に所縁(ゆかり)のある…

棟方志功の足跡をたどりました(御二河白道図:飛鳥山善興寺)

北日本新聞(声の交差点) 令和5年9月19日(火)付 北日本新聞(地方紙:富山県)の「声の交差点」に投稿しました。4年前、「棟方とつながる」というタイトルで投稿した(下記リンク)経緯があり、今回は、そのアンサー(回答)という思いもあります。 …