手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

仏法とは

「私はこの世をいかに楽しく明るく豊かに生きるかということのために仏法を聴いています」、もしこういうふうに思って来られたら、これは根本から考え直さなくてはいけないと思いますね。そうではなくて、いったいこの自分は何のためにこの世に生まれてきた…

私の思いや考えを超越した「広大無辺の世界」

仏法の世界というものはもともとそういう広大無辺の世界なんです。私の念仏とか、私の信心とかいう、そういう「私の」という我執の心を離れたところに仏法があるわけです。私だから今日はお寺へお参りしたというような気持ちがちょっとでも入っておりました…

私の生死問題

お経を死者たちに回向すれば、死者たちがその功徳を得て、成仏するだろうというように一般には考えられています。浄土真宗以外の宗派ではほとんどそうなっていて、そこに何の疑問を持たれないようです。これは、仏教が自分自身の問題ではなくなり、死者とい…

安心して死んで行けますか?

阿弥陀様の本願を信じている人は、阿弥陀様のお浄土に間違いなく生まれさせていただくんだから、安心しております。死んでいくことはそんなに嬉しくはないけれど、死ぬことには不安はありません。これはご信心の人の人生です。その人はもう生死の問題を解決…

南無阿弥陀仏という言葉

一切衆生がまちがいなく救われる方法はどこにあるか。それを見つけるために如来の壮大な思考があったのです。そして、それは自分が名号になることだと気付かれたのです。名前となって呼びかけたら、どんなに眠っている迷いの凡夫だって目を覚ます筈だという…

病気を楽しむ心境

正岡子規は自身は宗教嫌いであることを公言してきた俳人ですが、最後の病床で激しい痛みと戦っているときに、ある宗教家から届いた一通の手紙を読んで、それまでなかった安らぎを経験したことを『病床六尺』に記しています。 病気になったら、ただ病苦に耐え…

仏さまの教え

仏教を学ぶには分別的な知性がいちばん悪いのです。何が悪いったって分別がいちばん悪い、というのが仏さまの教えです。教義の概念を頭で理解してそれで事足れりとするのは仏教の精神に最も遠いわけです。言葉の意味を知的に分別してわかるだけでなく、その…

あわや本塁打?(捉え方の違い)

守備側の視点では、ピンチになるのでつかえます。攻撃側では、「もう少しで」本塁打という言い方になります。「ホームランになりそうな打球」という事実は、双方同じですが、その立場によって180度意味合いが違います。おもしろいものです。 では、「南無…

コロナを恐れる理由

毎日、コロナの報道が絶えません。なぜ、コロナの話題が絶えないのでしょうか。いかがでしょうか。それは、コロナ感染したその先に死が待ち構えている、という現実があるからではないでしょうか。しかし、その死(私が死ぬこと)において、完全にマスクされ…

わたし

わたしとはなんだろう 日常では、手品師さん スーパーに行けば、お客さん 病院に罹れば、患者さん 信心たまわれば、仏さま やっぱり、わたしは仏さま (がいいなぁ) ※金子みすゞ風に書いてみました(笑)

言葉の力

人間関係に上手な言葉は必要ありません。大切なのは「うまく話す」ことではなく「やさしく話す」ということです。「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである」 と仏典にもあるように、も…

月のひかり  🌺金子みすゞ(10)

一 月のひかりはお屋根から、 明るい街をのぞきます。 なにも知らない人たちは、 ひるまのやうに、たのしげに、 明るい街をあるきます。 月のひかりはそれを見て、 そつとためいきついてから、 誰も貰はぬ、たくさんの、 影を瓦にすててます。 それを知らな…

一寸先は?!

「一寸先は闇」ということは、突き詰めれば「今も闇」ということです。『一寸先も光』という身になりたいものです。それは、南無阿弥陀仏に依るしかありません。『南無阿弥陀仏』は、私の人生の支柱になっています!と言える人生でありたい、ものです。 おか…

Uターン ※還相の菩薩

また浄土に往生して、もう一度この俗世に還ってくる。そうしたら釈尊のように人々を救えるんだ、と親鸞はリアルに感じていたわけです。還相の菩薩となったら、あらゆる手段で人を救えるそうです。 山口県に深川倫雄(ふかがわりんゆう)〈※1932年~2012年、…

手品師  🌺金子みすゞ(9)

私はきのふ、決めたのよ、 いまに大きくなつたなら、 上手な手品師になることを。 きのふ見て來(き)た手品師は、 みるまに薔薇の花咲かせ、 ばらをお鳩に變(か)へてゐた。 【 金子みすゞ全集(JULA出版局)手品師:金子みすゞ】より これは、「手品師」…

光に向かう?!

コロナ禍真っ只中の現在を、真っ暗な長いトンネルな中にいる、というような表現で書かれている文章をよく目にします。こういう場合は、トンネルの先にあるであろう光に向かって突き進むという言い回しは、すごく的を射ています。 では「すでに、南無阿弥陀仏…

私の狭い了見でモノを見る

私達もどこまで未来を見通す眼をもっていますかね。今さえよければいいと往々にしてなっています。また「五欲」というのは目、耳、鼻、舌、そして身。いわゆる五感です。直接的に感覚できるものに貪着したのです。逆にいえば、日ごろ私達はそれ以外のことは…

阿弥陀さま ⇒ 私(私は受ける側)

私たちは普通、阿弥陀が救済の糸を垂らして、それを掴むのは私たちの努力ないし力であると考えます。しかしながら真宗においては、私たちがもともと自分に属していると考えるその力は、まったく自分たちのものではなく、阿弥陀から来ているというのです。私…

南無阿弥陀仏につつまれて

南無阿弥陀仏のある生活は、やっぱり、ほっとします。みな、1日1日、一生懸命生きているわけですが、南無阿弥陀仏を知らないで終える人生は無意味ですね。やっぱり、そう思います。南無阿弥陀仏があって本当によかったな、と思うこの頃です。 おかげさまで…

呼応する

阿弥陀さんが「南無阿弥陀仏」と称えよ!と、おっしゃられますので、 わたしは、「南無阿弥陀仏」と称えます。ただそれだけのことです。 至って自然なことであります~。そこに私の計らいなんぞ微塵もありません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

阿弥陀さまと私の距離

「阿弥陀さまは(私に)寄り添っておられます」という言葉をよく法話(浄土真宗)で聞きます。阿弥陀さまと私の間に距離はない、ということです。私が、そのことに気付かないだけなのです。 蓮如上人は、以下のようにいわれました。 「当流真実の信心に住し…

コミュニケーション 「人と人(私)」と「阿弥陀さまと私」の違い

言葉を、コミュニケーションを取るための道具と考えるならば、言葉を発する側と、受け取る側がいることが前提となる。「伝わった」という状況は、この両者、つまり、話す側と聞く側や、書く側と読む側の共同作業によってもたされるのだ。 とはいえ、聞く側や…

気付き

キリスト教徒は、私たちがまるで神から疎外されていたかのように、神との和解ということを語ります。 真宗の信者なら「どんなに阿弥陀さんから逃げようとしても、阿弥陀さんはいつも付いてきていて、決して離れることはできません。逃げようとすればするほど…

仏教は何のためにあるのか?

驚きのないところには仏法は始まらないのだと思います。「このような世界があったのか」と、思ってもみないような世界、ものの見方があったと、こういう驚きです。 大谷大学にも大勢の学生がきていますが、その中で一番驚きが少ないのがお寺の長男です。僕も…

孤独死

最近、「孤独死」の報道をよく耳にします。ひとり暮らしの高齢者だけに限らず、中高年も例外ではないようです。その原因として、核家族化や近所付き合いの希薄がいわれています。実際、死んでいることに誰も気づかない、という事例が増えており社会問題にも…

阿弥陀さまのはたらきに出会うか、出会わないか

何をもって行とするのか。つまり覚りに至る方法とは何かと言えば、それまでは釈尊の真似をすることだと阿難は考えていたのでしょう。でも全く違っていたのです。如来の徳を行じておられるその如来のお働きに出会うか出会わないかということが大問題だったの…

ギュッと

先日、ちょっとしたことが縁で、テレビの取材を受けました。収録時間は約3時間。実際、放送で使われた時間は45秒でした。エキスをギュッと凝縮した45秒ともいえます。とても貴重な経験でした。 「南無阿弥陀仏」の6文字には、阿弥陀さまの命がギュッと…

人間に生まれた意味

もとより仏教は、釈尊によって始まっています。釈尊はなぜ出家をされたのかといいますと、生老病死の苦悩から解放されて生きる者となりたいと、これが出発点です。この生老病死を苦悩として生きているのは、人間だけです。生まれて年を取り病気をえて死んで…

無限の電波

(掲示板) ほとけさまに圏外なし この掲示板を投稿された住職によると自信作で、「以前、掲示板の言葉として投稿したら、翻訳して海外までシェアされていました」とのことです。 浄土真宗のお寺からの投稿ですから、阿弥陀仏の慈悲はどこにでも届いている…

ちょっと横に置く(私の思いや考えを)

「総序」に「聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ」(一三二頁)というお言葉があります。私が思ったら思っただけ間違うぞ、だからお前の考えを横に置いておけということです。人間の考えを捨てる訳にはいかないから、ちょっと横に置いておけ。…