手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

称名念仏の源泉

 つまり、私の口に称名が出てくる一番の源泉はそもそもどこにあるのかというと、如来様の本願にあるわけです。凡夫の心が念仏の源泉ではありません。発信地が凡夫の心でないということに思い定まったことが信心ということなんです。発信地と言わず根源と言った方がいいかもしれません。我々が生きているいのちの根源は、実は私ではなくて如来様といういのちだったのだということに気付いた時、その人は信心に入ったのです。
 人生とは自分がしっかり生きるところだと思っている人は信心の人ではありません。私たちよりも先行している次元があるのです。私たちは後から出て来たのです。世間でも後手先手と言うでしょう。すべて後手先手に回っているとか、よく経済や政治の世界でも批判されることがありますけど、凡夫はいつも後手ですよ。如来様がいつも先手です。如来様は私どもが生まれてくる前に本願を成就して、すでに阿弥陀様になっていらっしゃるということがすべての事柄の先なんです。これはいわば、宇宙の初めにある事件です。弥陀の誓願の不思議はすでに成就しているということが、一切のことの先にある。その世界に私どもは後から入場してきたのです。如来様も何もおられないところへ先に私たちが入ってきて、後から如来様のご入場ではないんです。如来様が先にいらっしゃるところへ私どもは後から入って来た。これを「本願力回向」と申します。如来様の方がいつでも先に来ていらっしゃるわけです。だから、南無阿弥陀仏という称名念仏も決して私の方から始まるのではなく、如来様の方が私を称えさせて下さるのです。つまり如来様の名乗りの反響です。南無阿弥陀仏と向こうから言われる、その声が私に当たって反射するこだまです。
【『歎異抄』第七条・第八条 無礙の一道 大峯 顕 百華苑 P69、P70より】



南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまとわたしを繋げる言葉といってもよいでしょう。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまのお慈悲が顕在化されたお言葉なのです。
その温もりを感じてお念仏を称える、報恩感謝の南無阿弥陀仏なのでした。
仏法ひろまれ 響け 届け・・・・・・
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏