手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

力(りき)む人

だいたい、固く信じて疑わないとか、確信とかいうのは実は疑いの変形にすぎません。もし、御主人に対して奥さんが、「私はあなたを信じていますけど」と言い出したら、これは奥さんが疑っている証拠かもしれませんね(笑)。本当に信じていたら、「私はあなたを信じてますけど」というようなことは言わないと思います。「私は仏様のお救いを確信している。どんなことがあったってこの私の信心は崩れません」と力んでいる人はお浄土へ参れません。自力心だからです。そんなに肩に力を入れることはないのです。如来様が助けると仰っているから、それを頂くだけです。これを自分の方であらためてしっかり握りしめる必要はないです。それが浄土の慈悲の世界であります。今度私たちが仏に成るのは間違いはない。だって仏様がそう言ってくださっているからです。仏様はうそを言われないのです。
【『歎異抄』第四条・第五条 大慈悲心 大峯 顕 百華苑 P49、P50より】



南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされていることを、敢えて確かめる必要もなく、ただ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけです。
(私は阿弥陀さまに救われていると)固く信じて疑わない、とか、(私は阿弥陀さまに救われていると)確信する、と力む背景には「不安」があるのでしょう。また、そういっているうちは、阿弥陀さまの救いに「疑い」をもっている、ともいえます。「仏さまはウソを言われない」とありますが、全くもって頼もしいことです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



力む サラリーマン