手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2018-03-01から1ヶ月間の記事一覧

「冥加」を知る者

梯 實圓 先生が「冥加ということ 」という題で書いておられる文章の一節を紹介して、結びにかえさせていただきたいと思います。 『如来さまの厳しい智慧の眼と、暖かい慈悲のまなざしに見守られていることを実感するものには、如来のしろしめす領域に心の視…

南無阿弥陀仏の親に遇う

南無阿弥陀仏で 親を知り 南無阿弥陀仏の 親に遇い 南無阿弥陀仏と 二人連れ 二〇一六年十月一日、「伝灯奉告法要 」の初日に御門主が発布された御親教には、私たち宗門の人々が目指すべき「念仏者の生き方 」を示されています 。この御親教は、あらためて私…

真実信心の行人

親鸞聖人は 、お弟子に宛てられた手紙の中で 、 真実信心の行人は 、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す 。このゆゑに臨終まつことなし 、来迎たのむことなし 。信心の定まるとき往生また定まるなり 。来迎の儀則をまたず 。 といわれています 。 親鸞聖人の…

煩悩具足の聖者

思い返せば 、大学時代 、行信教校への入学を決意した夏の日 、たまたま仏教青年会の早朝奉仕作業で本願寺鹿児島別院に来ていて 、その後 、お参りしたお晨朝の法話に出講されていた梯實圓(かけはしじつえん)先生から聞かせていただいたご法話によって 、…

念仏

「念仏称えたら、浄土参り間違いなし」 南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされているひとからみれば、ごく当たり前のことです。なんの違和感もありません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

桜の花に想う ※投稿文

「散る桜 残る桜も 散る桜 」 この季節になると思い浮かぶ歌である。これは、江戸時代、曹洞宗の僧侶で歌人でもあった良寛(りょうかん)の辞世の句といわれている。今どんなに美しく綺麗に咲き誇っている桜であってもいつかは必ず散っていく。そのことをし…

常例布教(築地本願寺)

本日、久々に築地本願寺にお参りしました。足元の舗装をはじめ、かなり綺麗に整備されておりビックリしました(驚)。常例布教1座だけのご縁でしたが、とてもリフレッシュできました。「三信(淳心、一心、相続心)」、「救急の大悲」、「真実信心の行人」…

「私の」生死問題

私たちは、「今日のご法話は、いいご法話だった」と思うことはあっても、なかなか「私のためのご法話だった」とは思えないものです。つい、「あの人に聞かせるべきご法話だった」とか、「なかなかあの人は、ご法話を聞かないからね」と、他人事にしてしまい…

屏風の向こうも明日の天気もわからん者が

わたしたちの耳は聞きたいことを聞きたいようにしか聞かず、目は見たいものを見たいようにしか見ない。それは、どこまで技を広げても結局は鉢の中の盆栽であるのと同じことだ。そこに知性の限界がある。 にもかかわらず、そのわずかばかりの知見をもって、屏…

気づかせてもらった

真宗門徒は何かに気がついた場合、「気づいた」とは言わずに「気づかせてもらった」と言う。「わかった」という場合もそれと同じく、「わからせてもらった」と言う。 このような受動表現を取るのは、自覚の主体が自分ではなく、自己の分別を超えた絶対の智慧…

臭いものには蓋をしない ※投稿文

「臭いものには蓋をする」という諺がある。故事ことわざ辞典によれば「都合の悪いことや醜聞が他に漏れないように、一時しのぎの方法で隠すことのたとえ」とある。この世で最も臭いものはなんであろうか?と考えてみた。答えはすぐに浮かんだ。それは「私は…

頭でこさえたものは間にあわん

「頭でこさえたものは間にあわん」。この言葉は、いまでも法語カレンダーなどで見かける。詠み人の名が一緒に記されているものもあるが、本来は詠み人知らずで,、昔の真宗門徒に広く膾炙(かいしゃ)されていた言葉だ。 話し相手の失敗談が愚痴に変わり、や…