手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2015-11-01から1ヶ月間の記事一覧

ああ、そうであったか

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 兵頭(質問) 南無阿弥陀仏ということを常に耳にしております。なぜか、南無阿弥陀仏というわけがわかりたいようにも思います…

表裏一体 (生と死を考える)

死はどこにあるか。終端におけるそれが、あくまでも不分明なままならば、私たちは死を、生のどこに見い出すことができるのか。 今のここ と、私は言った。生を生たらしめているものは、生でないものすなわち死である。瞬間瞬間の生を瞬間瞬間の生たらしめて…

現実を直視する

人間には生きている限り死は必然である。死からどんな技術や呪術を使っても逃げることはできない。しかも人間はこの死を知っている動物である。知るということはごまかすことが可能である。多くの人はこの死の不安に眼を覆って、日常の仕事で忘れようとし、…

バロメーター (座る場所)

(以下引用) 教室の後方に座る学生はテストの成績は悪い一方、(講師に対する)講義への評価は厳しかった――。産業能率大(神奈川県伊勢原市)の松村有二・情報マネジメント学部教授が約140人の学生を対象に調べたところ、そんな傾向が明らかになった。自…

死について

死という、避けては通れない万人共通の大問題において 死を他人事としか捉えきれないひと 死を自分の事として直視できるひと、のいずれかに分れます。 後者は、ある意味、幸せなひとです。 さらに、 このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされているひと…

わたしの存在意義

何故如来を信ぜねばならぬかということは清澤先生の信仰について大切なことである。世間一般の人は、如来を信ずればどういう効能があるかで満足しているが、先生は、なぜ如来を信じなくてはならぬのかということが問題であった。自分の智慧は有限である、人…

今日の尊さを忘れない

私どもの宗派では、「仏法には明日はない」とよく言います。人間のいのちは壊れやすく、次の瞬間どうなるかわからないから、明日に延ばさず、今日、話を聞きましょうという戒めです。 これは、仏教に限らず、日常の生活についても言えることではないでしょう…

おかげさまで

縁起の世界のあり方は実にさまざまに分析でき、しかも重重に関係しあっています。たとえば、私たちが通勤のため電車に乗るとき、線路や電車を作ってくれた人、切符や定期を売る機械、改札の機会を作った人等が不可欠であり、その背景にはどれほどの人々が関…

おねんぶつ

念仏だからこそ、わたしは助かるのです。 念仏すなわち南無阿弥陀仏。 南無阿弥陀仏は、単なる概念や記号ではありません。 願行具足の南無阿弥陀仏といわれますように 南無阿弥陀仏には阿弥陀さまのいのちが込められています。 このいま・ここで・わたしに、…

宗教と言葉の本質

大峯 師(1) 人間にとっての言葉は、魚にとっての水のようなもの。魚は水がなければ死ぬ。それほど切実だから、かえって見えない。宗教も突き詰めて言えば、本当の言葉に生かされているという感覚のことだと思う。浄土真宗では、名号(みょうごう)「南無…

広い視点で考えることの大切さ

情報が手軽に手に入るわりに、忙しくてその暇がないのか、現代人はものを考えなくなってきているように思えます。自分の頭で考えた意見よりも、他人の意見の受け売りや、単純に物事を割り切ってしまった意見が蔓延している感じです。いろいろな情報が大量に…