手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

一つの課題

 長生きなんていうことは、人生に生まれたことの本当の目的じゃないわけです。もし長生きが人生の目的だとしたら、人生はあまりにも短かすぎます。長い宇宙の生成からいったらほんの瞬間です。人間同士だけで比べて、この人は七十、あの人は八十とか言っていると、人生は結構長いように見えますが、もっと長い時間の単位で考えてみたら、人の一生はマッチの棒が燃えている間みたいです。
 そうしますと、なぜそんな短い命が燃えなくてはならないのかという、根本的な疑問が生まれて来るはずでしょう。どうして私たちはわざわざこんな短い命を持って生まれてきたんだろう。生まれてこなくったってよかった筈なのに、今ここに生きているのは何故か。生まれようと思って生まれた人は一人もいません。親がどんなに生もうと思っても生めないんです。そしたら、いったいどこに、この命の存在の意味があるのか。何のための命か。私が今ここに生きているのはいったい何のためだ、という問いを誰もがかかえて生きているわけです。この問いの解決が万人に課せられてあることに気づこうとしないで、人生とは出世するためだとか、お金を儲けるためだとか、勝手にそんなことを決めていますが、これは自分個人が勝手につくった人生の構図で、そんな計画通りに人生はいかないから、全く主観的な夢でしかないということがわかります。
 そうじゃなくて、われわれのこの命は一つの課題を持っているのです。それは、大きな生命そのものの課題です。われわれひとりひとりのこの個体の命の中にある大きな命が、この課題の解決を要求しているのです。何を要求しているかというと、命が命になりたいと願っているのです。わたしは百年も生きられたらそれで結構だと勝手に個人は言っているけれど、個人じゃなくて個人を生かしている命そのものは、そんな百年くらいの命を生きたら満足だとは決して言っていないのです。そうではなく、私は死なない命になりたい、命そのものになりたい、という願望がすべての個体の深い底にひそんでいるのです。それが願生心、お浄土に生まれたいという願いに他なりません。これを満足しないことには、われわれは本当は死んでも死ねないんですね。
【よきひとの仰せ『歎異抄』第二条 大峯 顕 百華苑 P29〜P31より】



マッチ棒が燃え尽きるまでの猶予時間に何をするか、
健康、長生き、金儲け、仕事、出世、結婚、子育て・・・・・・・
これらのいずれも死をもって強制終了です。ここでは、これらのものは儚い主観的な夢である、と述べられています。
「われわれのこの命は一つの課題を持っている」
その課題とは、ズバリ、
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされ南無阿弥陀仏の身になる、ことです。
生死は表裏一体です。いまが大事です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



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