手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまの願い

 お浄土に生まれたいということは、いかなる個人や個体であってもひとしく持っている普遍的な願望です。人間だけでなく、蝶々や花であろうが、鳥であろうが、蛇であろうが、蛙であろうが、いやしくとも命を持っている存在はことごとく生きたいと願っています。しかし、おそらく私どもは仏法を聞かないうちは、そういう願いはとても満足できないといってあきらめて死ぬんでありましょう。つまり、光と命の限りないお浄土があればいいけど、そんなものはたぶんないだろうと思ってあきらめて死んでしまう。あればいいがと思っていても、それを本当に信じることができない。たいがいの現代人はそう思っている筈です。しかし、仏の教えを聞くと何と不思議なことに、これが信じさせていただけるようになるのです。
 どうしてそうなるのかというと、生きとし生けるものを無量光明土である浄土に生まれさせようと言う如来様の願いがこの私にいたりとどいて、私自身の内にそういう願生心を起こさせてくださるからです。つまり、願生心は、実は如来様が私たちにくださるんです。自分自身の中にあるとは思えない願生心が、如来様によって目覚めさせられるといってもよいでしょう。これを「如来の回向」と言います。親鸞聖人は「本願招喚の勅命なり」とも言われております。お浄土に生まれたいという願心の出現は、「生まれよ」と言ってくださっていた如来様の呼び声が私に聞こえたということであります。呼び声といっても外から、遠い西方浄土から呼んでいるという、そんな間接的な呼び声ではありません。私自身の内に来て、内から私を呼ぶ直接の声です。私の口から出るこの南無阿弥陀仏という名号は、そのまま如来様の呼び声です。お前は死ぬことはないんだ、仏になるんだ、もしお前が仏になれなかったら自分は阿弥陀にならないと誓われた法蔵菩薩がすでに仏になって呼んでくださる声です。われわれの命はもともと、この尊い誓願の中に生かされているわけですね。
【悪人成仏『歎異抄』第三条 大峯 顕 百華苑 P58〜P60より】



「仏の教えを聞くと何と不思議なことに、これが信じさせていただけるようになるのです」
⇒ホント、不思議なものです。阿弥陀さまのなせる業(わざ)です。
南無阿弥陀仏。


「自分自身の中にあるとは思えない願生心が、如来様によって目覚めさせられる」
⇒浄土に生まれたい、という私の願いまでも含め、すべて阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきによるものです。
南無阿弥陀仏。


「われわれの命はもともと、この尊い誓願の中に生かされているわけですね」
⇒つまり、そういう状況下で生かされている私においては、誓願の中に生かされてあることに気づかせていただくだけでよい、ということです。そのことに気づかされるか否か、が大きな分かれ道となります。どうせならば、このいま・ここで、この生死の繰り返しを打ち止め(おわり)にしたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



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