2016-02-01から1ヶ月間の記事一覧
蓮如さんは、念仏を「弥陀たのむ」と言う。「たのむ」ということです。「たのむ」とは何か。「たのむ」には、「頼む」と「憑む」の二つがある。蓮如さんが言う「たのむ」は後者の「憑む」です。我々の「たのむ」は前者の「頼む」です。「頼む」は依頼心です…
「助かってみれば助かることもいらなかった」という先人の言葉があります。 非常に共感させられるお言葉です。 言い換えますと、 「南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされてみると、 すべてが、阿弥陀さまのお計らいに依るものであったと知らされた」という…
この人間界はハブ空港的世界といえるのではないでしょうか。 阿弥陀さまのおはたらきに気付かされるか否か、 浄土 or 迷い(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄) の分岐界であります。 このいまが非常に大事です。 生かされて 今日も 南無阿弥陀仏
中途半端ほど、スッキリしないものはありません。 地獄であろうが、 浄土であろうが、 どっちでもよいではありませんか。 白黒つけさせられる。 その方がよっぽど安心させられます。 いずれにせよ、阿弥陀さまのおはたらきの中での出来事です。 阿弥陀さまに…
自分は〜 自分は〜 が 阿弥陀さまは〜 阿弥陀さまは〜 となれば 占めたものです。 自然とお念仏がこぼれます。 なむあみだぶつ
無条件の救いとは、 そのままの救い、ということです。 自分を着飾る必要がない、ということです。 こんな楽なことはありません。 他力といわれる所以です。 ただただおまかせ、です。 おかげさまで 今日も なもあみだぶつ
言葉のもつ込められた意味を感じとれる人と そうでない人は雲泥の差です。 「南無阿弥陀仏」の六文字においても然り。 「南無阿弥陀仏」は単なる言葉や記号ではありません。 阿弥陀さまの命が込められています。 そのおはたらきに気付かされることの意義は計…
如来を離れて私なし。 私を離れて如来なし。 一心同体南無阿弥陀仏。 感謝、感謝。
自分中心の生活が 阿弥陀さま視点の生活に転換させられました 世界が広がります 南無阿弥陀仏のおはたらきに依るものです。 ただ、お念仏申すだけ。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
当たり前と思って生きていることが 実は、当たり前でなかった、と知らされる 自分の力で生きているように思っていた人生が 実は、阿弥陀さまに生かされて生きている、ということに気付かされる 南無阿弥陀仏のなせる業(わざ)です。
あまりにも簡単すぎるから、疑ってしまうのでしょうか。 それは、自分ものさし、です。 阿弥陀さまに向かわせて頂きたいものです。
「確信する」は 政治家の釈明会見等でよく耳にする言葉です。 十中八九、その確信は裏切られます 「確信している」と発する本人自身、ほとんど希望的観測に立っているように思います。 「確信する」は、自分中心の言葉です。あてになりません。 ハッキリして…
兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 兵頭(質問) 南無阿弥陀仏ほどの不思議はないということ、それはたのめと助けると同時に成就してあるということがなかなかわ…
兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 安田(回答) 計らいを捨てて仏のような心になろうというのが計らいです。どうしてもすたらないのです。そういう懺悔がある。…
私は、〈真宗〉を宗派の意味ではなく、人間にとって〈ほんとう〉のことであり、その〈ほんとう〉に触れるならば、誰しもに感動が起こり、そのことで苦悩から救われていく普遍的な原理として使っています。ですから、私の所属する「真宗大谷派」は、〈真宗〉…
「世間のひとは・・・」と自ら距離を置き優越感に浸っている人は、了見が狭い人です。 阿弥陀さまからみれば、世間の人も自ら距離を置くひともまったく同じ凡夫です。 自分(私)は世間の人とは違う、と優越感に浸っている人は、自意識過剰人間といってよい…
「わたしは、阿弥陀さまに選ばれた人間だ!」と、そういうふうに思っていた時期がありました。それは、全く自分勝手な思いでした。 キリスト教を信仰しているひと、エホバを信じている人、無宗教というひと、と様々です。 いま、なにを信仰していようがいま…
今日は、私の誕生日です(笑) 節分でもあります。最近では、節分に食べると縁起が良いとされる太巻きを食べる習慣が浸透しつつあります。食品業界の戦略でもあります(笑) 私もその戦略に乗っかりました。食欲には勝てません(笑) 西の方に向かって、南無…