手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2015-01-01から1年間の記事一覧

果たして、死は臭い(暗い)ものなのか。

死は、暗いもの臭いものとして嫌われます。 臭いものに蓋をして無理やり押し込めるより、蓋をせず開放する方がよっぽどサッパリするのではないでしょうか。 つまり、生死問題において真正面からじっくりと考えることが大事であるということです。何事におい…

今救い(目的)の中ということ

さて、冒頭の鳥たちに「目先のことだけに追われて虚しく人生を終わるのか?」と皮肉られるような、姿かたちだけの人間を生きてはいないだろうか。「せっかく人に生まれさせてもらえたのに・・・・・・」と。仏教における人間に生まれた意味とはここにある。 …

念仏によって眼に見えぬ光を感じる

信心決定した人は御仏の摂取の光明の中に摂(おさ)められている。しかし私どもは肉眼では煩悩にさえられて見ることができぬ。光は見ることができぬが、念仏によって眼に見えぬ光を私どもは感ずる。足元が明るい、先が明るい。前途の光が自分の足元を、わが…

生死を考える (生と死は表裏一体)

仏教では〝生死(しょうじ)〟と言う。世の中一般の人は、〝死生〟と死の方を先にして言う。私どもは死を忘れれば生の尊さもわからぬ。生は絶対的なものだと言うが、こういうのは、死を裏においてこの生は絶対的と言うのであろう。生と死が一枚の紙の裏表で…

(浄土に)参ろうという心

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 安田(質問) 普通、人間はこの世に生きておりたいということで、参ろうという気は起きない。その参ろうというところまで、仏…

阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに呼び覚まされる

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 兵頭(質問) 自己といっても。 安田(回答) 普通の自己は、我執を自己という。仏法の自己は、我執の破れたところに自己があ…

一心同体 南無阿弥陀仏

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 兵頭(質問) 他力を信ずるということがわからないのです。他力を向こうにながめて自分が信ずるというような具合になる。 安田…

まずやるべきこと (浄土真宗の視点から)

目の前で、人が倒れていたらどうしますか? まず、救急車を呼んで病院へ搬送させるのが普通です。 目の前で倒れている人を見ながら、 「なぜ、この人は倒れているのだろうか?」といろいろ考えている人はいるでしょうか。 そんなことをしていますと、取り返…

理屈なしに南無阿弥陀仏

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 兵頭(質問) 私は、如来の願いが願心であって、行というものは衆生に与えられたもの。衆生が称えるものかと。 安田(回答) …

ああ、そうであったか

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 兵頭(質問) 南無阿弥陀仏ということを常に耳にしております。なぜか、南無阿弥陀仏というわけがわかりたいようにも思います…

表裏一体 (生と死を考える)

死はどこにあるか。終端におけるそれが、あくまでも不分明なままならば、私たちは死を、生のどこに見い出すことができるのか。 今のここ と、私は言った。生を生たらしめているものは、生でないものすなわち死である。瞬間瞬間の生を瞬間瞬間の生たらしめて…

現実を直視する

人間には生きている限り死は必然である。死からどんな技術や呪術を使っても逃げることはできない。しかも人間はこの死を知っている動物である。知るということはごまかすことが可能である。多くの人はこの死の不安に眼を覆って、日常の仕事で忘れようとし、…

バロメーター (座る場所)

(以下引用) 教室の後方に座る学生はテストの成績は悪い一方、(講師に対する)講義への評価は厳しかった――。産業能率大(神奈川県伊勢原市)の松村有二・情報マネジメント学部教授が約140人の学生を対象に調べたところ、そんな傾向が明らかになった。自…

死について

死という、避けては通れない万人共通の大問題において 死を他人事としか捉えきれないひと 死を自分の事として直視できるひと、のいずれかに分れます。 後者は、ある意味、幸せなひとです。 さらに、 このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされているひと…

わたしの存在意義

何故如来を信ぜねばならぬかということは清澤先生の信仰について大切なことである。世間一般の人は、如来を信ずればどういう効能があるかで満足しているが、先生は、なぜ如来を信じなくてはならぬのかということが問題であった。自分の智慧は有限である、人…

今日の尊さを忘れない

私どもの宗派では、「仏法には明日はない」とよく言います。人間のいのちは壊れやすく、次の瞬間どうなるかわからないから、明日に延ばさず、今日、話を聞きましょうという戒めです。 これは、仏教に限らず、日常の生活についても言えることではないでしょう…

おかげさまで

縁起の世界のあり方は実にさまざまに分析でき、しかも重重に関係しあっています。たとえば、私たちが通勤のため電車に乗るとき、線路や電車を作ってくれた人、切符や定期を売る機械、改札の機会を作った人等が不可欠であり、その背景にはどれほどの人々が関…

おねんぶつ

念仏だからこそ、わたしは助かるのです。 念仏すなわち南無阿弥陀仏。 南無阿弥陀仏は、単なる概念や記号ではありません。 願行具足の南無阿弥陀仏といわれますように 南無阿弥陀仏には阿弥陀さまのいのちが込められています。 このいま・ここで・わたしに、…

宗教と言葉の本質

大峯 師(1) 人間にとっての言葉は、魚にとっての水のようなもの。魚は水がなければ死ぬ。それほど切実だから、かえって見えない。宗教も突き詰めて言えば、本当の言葉に生かされているという感覚のことだと思う。浄土真宗では、名号(みょうごう)「南無…

広い視点で考えることの大切さ

情報が手軽に手に入るわりに、忙しくてその暇がないのか、現代人はものを考えなくなってきているように思えます。自分の頭で考えた意見よりも、他人の意見の受け売りや、単純に物事を割り切ってしまった意見が蔓延している感じです。いろいろな情報が大量に…

いのちの有限性の自覚

あるお坊さんが、「わしの死ぬところをみんなに見せるように」と遺言して亡くなったそうです。人間は死ぬのだ、ということを子や孫たちに実地に教育するためでした。このお坊さんにかぎらず、おじいさん、おばあさんが「人間はこういうふうにして死ぬのだ」…

自分の力で生きていない証拠

「あの教えは間違っている、こちらが本物だ」などと言っているのは、こちらに問題がある。私たちは自分の知恵でなんとか煩悩の苦を取ろうとするし、それから、いつ死んでもいい身になろうと思い、悪を出すまいと思って努力します。けれども、次々と病気は出…

逆転の発想

逆に、人生にタイムリミットがあるから、 南無阿弥陀仏を聞くのかもしれません。 もちろん、それは阿弥陀さまのおはからいです。 今日も南無阿弥陀仏。

時間軸のズレ

阿弥陀さまの「このいまの救い」と わたしの「予定(概念)の救い」がうまく嚙み合うはずがありません。 予定という言葉がでてくる時点で、(阿弥陀さまの救いを)まだ自分のこととして捉えていないということがいえます。 予定は、言い換えれば「この先」の…

「この今」を考える

人生は短い。 と、どうしてもやはり思いますね。平均寿命は80と言われていますが、年をとってからできることは当然若い頃より制限されますし、ましてやその年まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもし…

とんぼ安心

今日も又「親のこころ子のこころ」の中の『とんぼ安心』というところを読ましていただきたいと思います。 これは、ある人の手紙でございますがそれを読んでみます。 「ご無沙汰いたしています。いつもご教化ありがとうぞんじます。私はいつも『とんぼ安心』…

発想の転換

事実として信じようとするけれど、深いところではうまく信じられないものだから、人は力ずくでそれを信じ込もうとする。教条になり、狂信になる。死後天国へ行くことが、どうしてさほど重大か。いまこの瞬間に「救われる」のでなければ、いつ救われることが…

阿弥陀さまにおまかせ

ジョギングが日課になっています。 そのコースの最終地点付近に浄土宗のお寺があります。 「念仏衆生摂取不捨」と刻まれた墓石を横目に見ながら、通り過ぎます。 心の中で南無阿弥陀仏、あるいは、大きな声で南無阿弥陀仏と称えます。 大変力強いお言葉です…

地球はまるい

「地球はまるい」ということは、今日では当たり前のことです。 しかしながら、16世紀にマゼランらが実証するまではいろいろと議論がされてきました。 われわれが、どうこう議論しようがしまいが、地球はまるいという事実は変わりません。われわれの思いや考…

白黒つける

物事、白黒つけた方が安心です。 良いにしろ、悪いにしろ、中途半端は落ち着きません。 生死問題もしかり。 浄土 or 迷いの世界、 白黒つけたいものです。 白黒ついたとき、 南無阿弥陀仏とお念仏がこぼれます。 今日も南無阿弥陀仏