手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2016-01-01から1ヶ月間の記事一覧

葬式仏教が機縁になれば意義がある

初期の仏教は葬式をやらなかったけれども、それが悪いと言えるかどうかは考える必要がある。今日では世間の人の批判の眼がありまして、葬式仏教ではいけないと言いますが、日本に仏教が残ったのは、またアジアの若干の国々に仏教が残ったのはなぜかと言いま…

浄土真宗は祈る宗教ではありません

浄土教、ことに浄土真宗では祈るということを嫌って、念ずるということを言います。ですから浄土真では祈るということは嫌って、念ずるということを言います。ですから浄土真宗の信仰に厚い方に手紙を書くときは、あなたのご健康を祈ります、といってはいけ…

念仏(南無阿弥陀仏)となって呼びかけてくださる

われわれは、なかなか仏さまの本願が信じられない。けれども、しかし、仏さまがわれわれを信じたまう力、それが具現化して本願というものになり、念仏というものになり、そうしてわれわれを呼んでいたもう。 そういう仏の念力によって、われわれは必ず、初め…

阿弥陀さまの呼びかけに応える

兵頭格言(四国在住の求道者)が87歳の老体をもって、京都上加茂に安田理深を訪れ、信仰上の諸々の疑問を訪ねられたときの記録 兵頭(質問) 呼びかけということは、常に南無阿弥陀仏に遇っているということですか。 安田(回答) 分別があるから、遇って…

あみださま (浄土真宗視点の手品考案)

今回は、趣向を変えた投稿です(笑) このブログのタイトルを「手品師」と命名するほど、手品(マジック)に のめり込んでいます(笑) 「いつか、浄土真宗視点の手品ができたらいいなぁ〜」と思っていました。 そして、いま、そのひとつが完成しました!予…

信仰のエリート主義

「私は本物の信心をえたから心配ない」と、こういう人がいたとすると、そういう存在は、あなたたちはまだまだというメッセージを発することになる。自分自身の救いに自信満々の人がいると、そのまわりの人は、みなその人にあこがれる。自分はまだまだあの人…

死に様は全く関係ありません

眠るように息を引き取ろうが、 もがき苦しんで死のうが、 記憶喪失の状態で亡くなろうが 不慮の事故で死のうが、 病気で亡くなろうが、 このいま、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされている人は 寿命尽きれば、往生((阿弥陀仏の浄土に往き生まれる)で…

私が思う 思わない、は関係ありません

どこへ行こうが何も心配ないというのが、阿弥陀さまを信じているということです。極楽へ行かなきゃ意味がないと思って念仏している人の思いは、信心ではありません。信心だと思い込んでいるだけです。信心と、信心と思っていることは大間違いです。「私はお…

すべてが如来の回向である

本願という言葉でいわれている大きなはたらき。その本願が名号を生み出し、浄土を生み出し、人間に信心を与えるという。そういう大きな作用である本願のはたらきは、外から飛んで来て入るというのではなくて、法蔵精神として兆載永劫(ちょうさいようごう)…

阿弥陀さまはこのいまも寄り添っている(その3)

阿弥陀さまのお救いに授かることが「人生の目的」である、といわれることがあります。たしかに、人生最大の一大事業といえます。しかしながら、そんなハードルを自分から拵(こしら)える必要はありません。 なぜならば、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらき…

阿弥陀さまはこのいまも寄り添っている(その2)

敢えて、「人生の目的」という言葉を使うならば 「人生の目的」だと思って生きてきた私の人生が 気付いてみると、『人生の目的のどまん中であった』ことに安心させられます。 阿弥陀さまの救いを「人生の目的」と思って生きているひとは、自分大好きの善人さ…

阿弥陀さまはこのいまも寄り添っている(その1)

浄土真宗を語る上で、 「人生の目的」という言葉に違和感を覚えます。 それは、その言葉に、阿弥陀さまのぬくもりを感じることができないからです。 あくまでも自分目線からでた言葉ではないでしょうか。 わたしの力量に依らなければ目的は達成できないとい…