手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2018-12-01から1ヶ月間の記事一覧

自己顕示欲

『南無阿弥陀仏』のことを多くの方に知ってもらいたい、という思いがある中で、 このブログを続けていられる原動力のひとつは自己顕示欲なのかなぁ〜、と思っているこの頃です。「雑毒の善」ではありますが、されど「雑毒の善」です。自分の都合がよいように…

言葉は語る

平成最後の年末となりました。 私にとって、この1年は、「言葉の力」を実感した年でもありました。日常生活において、いかに言葉(文字)を用いて相手に伝えるか、をテーマとしてきました。「言葉は語る」といわれた大峯 顕(おおみね あきら) 師の言葉が…

感謝の日々

未来が不安ということは、いまが不安ということです。 未来が明るいということは、いまが明るいということです。たとえ生活が苦しくとも。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

「世間の人は」と言って、一段上にいた私

以前のわたしはといいますと、世間一般人とは違う選ばれし者だと思っていました。しかしながら、それは大きな間違いだったのです。阿弥陀さまからみれば、みな同じ者でした。わたしもその辺の世間一般人のひとりであったのです。そんなことは当たり前のこと…

生死問題を考える(生死一如)

殊に人間には、生の欲求と必然の死の襲来との矛盾に対する解決、また生と生との願いの衝突に対する解決が必要となってきます。人間の必然的な欲求のさしとめられたところに、ある何ものかが本能的に出にゃならん。それが智慧であります。智慧の光に照らさな…

「信は即ち念、念は即ち信」

正信と念仏とは信と念です。これは『倶舎論』で心所(しんじょ)の研究をするときに、信と念とを別々にするのであります。また、八正道といって仏道修行の正しい行を示すところにも、正信の他に正念をあげてあります。この二つは違った心の働きであります。 …

一寸先も光

人生、一寸先は闇といわれていますが、皆さんはいかがでしょうか? 南無阿弥陀仏の人は、いうならば、一寸先も光なのです。浄土参りが確定しています。ですので、寿命尽きるまでの生活の根底には安心があります。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

雲泥の差2(受けとり方の違い)

石川県の藤原正遠作の一首が想起される 。 念仏に自力 ・他力の別が説かれるのは 、すべて人間からのかかわりかたによることであって 、念仏そのものに自力 ・他力の別があるはずはない 。いまの一首からわたくしは 「出る念仏 」と 「出す念仏 」の違いを教…

雲泥の差1(受けとり方の違い)

本日の青森市は大雪です。 雪かきをしても、次から次へと降り積もります。この期間は、ジョギングができない代わりに雪かきで体力づくりをしています。ですので、私にとって、中途半端な積雪よりドカッと降り積もってもらった方が嬉しいです。但し、想定外の…

南無阿弥陀仏となって

阿弥陀さまはどういう視点でいわれているのか、と阿弥陀さんと対話しながら生活していくことの意義は大きいですね。 阿弥陀さんとの出遇いがない人生は、まさしく、糸が切れた凧です。制御不能です。自分まかせの人生、結末は目に見えています。 対して、阿…

出遇い

出会いがあれば別れがあります。そんなことは誰でも分かっていることです。しかしながら、阿弥陀さんとの出遇いには別れはありません。果たして、そのことを知っている人はどれだけいるのでしょうか。

涙流しながらの自慢

自分はとてもひとさまの前に顔を出せるような心ではないといって、利口ぶって反省をしておるというような姿を見せるのも自力だといわれるのです。私はこれがいちばんきついと思います。わが身を頼むとか、わが力を頼むとか、わが心を頼むとかいうほうは、い…