手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2016-12-01から1ヶ月間の記事一覧

自然の道理

(歎異鈔 第十章の)冒頭に「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき」とあります。「無義をもつて義とす」というところが、ちょっと難しいようですが、無義というのは人間の理智で考えたような理由や意味がないということで…

助からないものが助かる

よろこびもおろそかでお浄土へ早く参りたいとも思えないのは、私に信心が不足していて、まだ弥陀の本願に出会ってないからではなくて、私の中にさかんな煩悩があるせいだというのがわかりました。それでは、その煩悩があるんだったら助からんのかと言えば、…

信後の立場

来世は仏にしていただくに決まっているという本願を聞かせてもらったら、本当はよろこぶべき筈なんですね。ところが、そのよろこぶべきことをどうしてもよろこべないのがわれわれの悲しい現実である。往生まちがいなしと聞いてもうれしくて、天に躍り上がる…

お念仏は交流です!

私は子どもの頃のことを、覚えていますが、まだ小学生の頃、門徒の人が庫裏へ用事があって来られて、帰る時「ちょっと本堂にお礼をさせていただきます」と言って帰られたことがよくありました。お礼ということはサンキューでしょ。いただいたものに対してあ…

聖教よみの聖教よまず

いつも思うことですが、お聖教は読みさえすればすぐわかるというものじゃないんですね。お聖教にこう書いてあると言っても、書かれてあることを読む私たちの側にいろいろと問題があるわけです。つまり、心にみな我見をもってますから、お聖教の言葉の「無我…

称名念仏の源泉

つまり、私の口に称名が出てくる一番の源泉はそもそもどこにあるのかというと、如来様の本願にあるわけです。凡夫の心が念仏の源泉ではありません。発信地が凡夫の心でないということに思い定まったことが信心ということなんです。発信地と言わず根源と言っ…

竹の幹の中にいる虫

横超という他力の道を昔の人は竹の幹の中にいる虫にたとえています。竹の中に一匹の虫が棲んでいて、何とかしてこの竹から外へ出たいと思っている。ふと上を見たら節がある。そこでその節を自力で食い破ってその上へ出る。しかし、その上にもまたもう一つ節…

念仏の人

やっぱり人間というのは本当に、普通の人がよろしいようです。今度お浄土へ行けるとありがたがって飛び上がっている人がいたらちょっとこれは要注意ですね(笑)。凡夫は、お浄土に参れると聞かされても何かあまり嬉しくないけれども、それでは心配している…

根本問題の解決は仏法に説かれてある

どれだけ花の名人と言われていても、死んでお骨になってしまったらそれまでです。お骨になってもまだお花を生けているということはないでしょう。この世の命、娑婆世界のことは間もなく終わりますね。学問や企業の道やお花やお茶の道をどんなに究めたって、…

お念仏を称えるのは至って自然な流れ

この個人の私よりもっと大きなものに、この私があらしめられていたんだと知らされること、広大無辺の力の中にある小さな自分の位置を発見すること、それが仏法の本質です。広大無辺な如来様のお力が働いている世界の中に、この私も許されていたということ、…

力(りき)む人

だいたい、固く信じて疑わないとか、確信とかいうのは実は疑いの変形にすぎません。もし、御主人に対して奥さんが、「私はあなたを信じていますけど」と言い出したら、これは奥さんが疑っている証拠かもしれませんね(笑)。本当に信じていたら、「私はあな…

阿弥陀さまの願い

お浄土に生まれたいということは、いかなる個人や個体であってもひとしく持っている普遍的な願望です。人間だけでなく、蝶々や花であろうが、鳥であろうが、蛇であろうが、蛙であろうが、いやしくとも命を持っている存在はことごとく生きたいと願っています…