手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2015-10-01から1ヶ月間の記事一覧

いのちの有限性の自覚

あるお坊さんが、「わしの死ぬところをみんなに見せるように」と遺言して亡くなったそうです。人間は死ぬのだ、ということを子や孫たちに実地に教育するためでした。このお坊さんにかぎらず、おじいさん、おばあさんが「人間はこういうふうにして死ぬのだ」…

自分の力で生きていない証拠

「あの教えは間違っている、こちらが本物だ」などと言っているのは、こちらに問題がある。私たちは自分の知恵でなんとか煩悩の苦を取ろうとするし、それから、いつ死んでもいい身になろうと思い、悪を出すまいと思って努力します。けれども、次々と病気は出…

逆転の発想

逆に、人生にタイムリミットがあるから、 南無阿弥陀仏を聞くのかもしれません。 もちろん、それは阿弥陀さまのおはからいです。 今日も南無阿弥陀仏。

時間軸のズレ

阿弥陀さまの「このいまの救い」と わたしの「予定(概念)の救い」がうまく嚙み合うはずがありません。 予定という言葉がでてくる時点で、(阿弥陀さまの救いを)まだ自分のこととして捉えていないということがいえます。 予定は、言い換えれば「この先」の…

「この今」を考える

人生は短い。 と、どうしてもやはり思いますね。平均寿命は80と言われていますが、年をとってからできることは当然若い頃より制限されますし、ましてやその年まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもし…

とんぼ安心

今日も又「親のこころ子のこころ」の中の『とんぼ安心』というところを読ましていただきたいと思います。 これは、ある人の手紙でございますがそれを読んでみます。 「ご無沙汰いたしています。いつもご教化ありがとうぞんじます。私はいつも『とんぼ安心』…

発想の転換

事実として信じようとするけれど、深いところではうまく信じられないものだから、人は力ずくでそれを信じ込もうとする。教条になり、狂信になる。死後天国へ行くことが、どうしてさほど重大か。いまこの瞬間に「救われる」のでなければ、いつ救われることが…

阿弥陀さまにおまかせ

ジョギングが日課になっています。 そのコースの最終地点付近に浄土宗のお寺があります。 「念仏衆生摂取不捨」と刻まれた墓石を横目に見ながら、通り過ぎます。 心の中で南無阿弥陀仏、あるいは、大きな声で南無阿弥陀仏と称えます。 大変力強いお言葉です…

地球はまるい

「地球はまるい」ということは、今日では当たり前のことです。 しかしながら、16世紀にマゼランらが実証するまではいろいろと議論がされてきました。 われわれが、どうこう議論しようがしまいが、地球はまるいという事実は変わりません。われわれの思いや考…

白黒つける

物事、白黒つけた方が安心です。 良いにしろ、悪いにしろ、中途半端は落ち着きません。 生死問題もしかり。 浄土 or 迷いの世界、 白黒つけたいものです。 白黒ついたとき、 南無阿弥陀仏とお念仏がこぼれます。 今日も南無阿弥陀仏