手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏さまの心

 別な言い方をすれば、信心の世界には「私」はないということです。蓮如上人は、「仏法は無我にて候」と言っておられます。無我は無我無想の心境ではありません。心を空っぽにするなどということはできませんが、ひるがえすことはできます。阿弥陀さまは第十七願で、本当の名前になりたい、本当の言葉になりたいという願を建て、成就されましたが、なぜその願は成就したのかというと、如来さまの心が無我だったからです。本当の言葉を生み出す心は無我の心なんですね。
 お前を救うという無我の心から名号が出て来たのです。南無阿弥陀仏が出てきたのは、仏さまの心からです。私たちは南無阿弥陀仏を作り出すことはできません。私たちは南無阿弥陀仏をいただくだけです。向こうから来た南無阿弥陀仏に当たって反射するだけなのです。もし、向こうに南無阿弥陀仏があって、私もこちらで南無阿弥陀仏を言っているというのであれば、南無阿弥陀仏が二つあることになって、これでは機法一体ではありません。二体だったらすれちがうかもしれないです。鈴木 大拙(すすき だいせつ)は、「向こうから来る声があるばかりだ」と書いておられます。その声がどういうわけか私に当たるのです。浅原 才市(あさはら さいち)は、「私に腑に落ちないことがひとつある。どうして自分が南無阿弥陀仏に当たったのか、それがわからない」と言っています。自分ではそのつもりはなかったのに、ある日、私の口から南無阿弥陀仏が出た。信心獲得の消息を実に的確に語っています。御文章には、「何のやうもなく」という言葉が出てきますが、これが「当たる」と同じですね。理由は詮索しないのです。なぜ阿弥陀さまが私を救ってくださるのかと、どれだけ考えたところで私は助かりません。
【かならず煩悩のこほりとけ 大峯 顕 響流書房 より】



阿弥陀さまに、ただおまかせ、ですね。
「ただおまかせ」に理屈はありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏