手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

夫婦仲の喩え

  嫁と仲良くやっていれば、敢えて「嫁と仲良くやっている」と意識していうことはありません。そうやって「嫁と仲良くやっている」アピールは、本当はうまくやっていないことの裏返しなのかもしれません。あるいは、そう意識的に自分に思い込ませようと言い聞かせているのでしょう。夫婦仲が本当によければ、逆に「喧嘩ばっかりして、いつ別れてもおかしくないよ~」みたいな冗談交じりというか余裕すら感じさせる言葉が出てくるのではないでしょうか。本当に夫婦仲が悪い状況でしたら、まず本当のことは口に出しません。といいますか、口に出せないでしょう。冗談は洒落にはなりません(笑)。

  前置きが長くなりましたが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人は、「わたしは救われています!!!」と声高らかに宣言するでしょうか。そんな人は、なんか胡散臭い感じが否めません。南無阿弥陀仏と念仏称えていればそれでよいことだと思います。当たり前すぎのことは、敢えて確かめる必要もありませんし、確かめる意味もありません。ただ、自然の流れで南無阿弥陀仏と報恩感謝のお念仏を称えていればそれでよいのでしょう。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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不安の根本原因は

   人生、不安は付きものです。その不安の根本原因はなんでしょうか?

それは、死にたくないけど死んでいかなければならない現実があることではないでしょうか。私(自分)が死ぬことを意識しようがしまいが、死は必ずやってきます。

   生死一如(しょうじいちにょ)という言葉が仏教にあります。生きることと死ぬことは表裏一体という意味です。ですので、私(自分)はいつ死んでもおかしくありません。逆に、いま生きていることの方が奇跡といってよいでしょう。今さえ良ければそれでいい、というような刹那主義的な生き方の結末は目にみえています。いま・ここで・私が生かされている意味を今一度じっくりと考えてみたいものです。

おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

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独生独死 独去独来(お釈迦さまの言葉)

  「独生独死(どくしょうどくし)独去独来(どっこどくらい)」(一人生まれ一人死し一人去り一人来たる)」

とお釈迦さまは言われました。 

   私たちは一人で生まれてきました。生まれたらこの世にいたのであって、どうしてこの世に生まれたのか分かりません。そして死ぬ時も一人です。私の身代わりになってくれる人は誰もいませんし、一緒についてきてくれる人もいません。生きていく上でも個人個人がそれぞれの考えで生きているように、私たちは一人一人の世界を生きています。考えや思いは共有することもありますが、根本的には百パーセント同じということはあり得ません。このように考えますと、私たちは生まれてから死ぬまで、各人が一人ぼっちの人生という旅を続けているのです。実に孤独で寂しい人生だと言わねばなりません。

 「独生独死 独去独来」(People are born alone and die alone, come alone and go alone.)

【ブログ:お慈悲のままに「The Phrase Sounding Lonely(寂しい言葉)」2/13より】

お慈悲のままに

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https://miko415.hatenablog.com/

 

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私のことを「独生独死 独去独来」とお釈迦さまはいわれました。有名な言葉です。以前は、上辺だけでしか捉えていませんでしたが、最近は身に沁みてそのように思います。遅かれ早かれ、家族や友人とも別れが来ます。皆、ひとりぼっちです。しかしながら、実はひとりぼっちではなかったのです。そのことに気付かされることはとても大事なことです。阿弥陀さまと共に歩む人生には大安心があります。根底にビシッと末通った安心です。煩悩渦巻く人生ではありますが、根底に安心があるのです。誠に有難いことです。

ただただ南無阿弥陀仏

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「いまを生きている」という点ではみな平等

  「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉が仏教にあります。簡単にいいますと、生きることと死ぬことは表裏一体ということです。ここ最近、また一つ歳をとったということもあり、死というものをより意識するようになりました。人生100年時代といわれている昨今ですが、人生50年を越えたのは戦後間もない昭和22年といわれています。その時代に生きていたならば、もう死期は近い、もしくはすでに死んでいたことでしょう。

  「このいまを生きている」という視点からみてみますと、いま、オギャ―とこの世に生を受けた赤ん坊、若者、中年、高齢者もみな平等です。それは「生死一如」の人生だからです。確かに平均寿命という点からみますと、たったいま生まれた赤ん坊の人生は一番長いでしょう。しかしながら、無常の世の中です。無常の風が吹けば、赤ん坊とて例外ではありません。「いま」を大事にして生きていきたいものです。

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しるし

親鸞聖人のお手紙の中には念仏者として生きる立場の具体性について「しるし 」ということがなんどもでてきます。「しるし 」とは見ればわかるものです 。説明を必要としない 。その人の生活する姿勢 、態度を見れば 、その人が何によって生きているのか 。それが明々白々に誰でもがわかることが 「しるし 」です 。そういう念仏者の具体性を親鸞聖人は 「世をいとうしるし 」とか 、「往生をねがうしるし 」というように使っています 。道を求めるとは真理を知識として知ることではなく 、そういう 「しるし 」をあらわす生活の 「かわりめ 」を経験することです 。

【歎異抄に学ぶ 尾畑文正 響流書房より】

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ここで、

『道を求めるとは真理を知識として知ることではなく 、そういう 「しるし 」をあらわす生活の 「かわりめ 」を経験することです。』とあります。

換言しますと、

浄土真宗の教えは、親鸞聖人をはじめとした善知識方の教え(ご著者等)の上辺だけの意味を知るのではなく、そのように言われた本意を汲み取ることが大事である、ということです。つまり、(私が)南無阿弥陀仏のはたらきに気付くことが大事である、ということではないでしょうか。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされますと、それまでの生活に対する姿勢や態度がかわってきます。劇的に生活態度が変わるということではないと思いますが、徐々に、生き方も変わっていくのでしょう。性格が変わるとか、そんなことではないですが、ものの見方といいますか、捉え方が阿弥陀さま視点になっていくといったらよいでしょうか。つまり、阿弥陀さまはどうみているのか?と、自分というものを客観視して物事を捉えていけるようになっていくということです。それは阿弥陀さまのお育てによる賜物です。信前・信後も変わりなく、阿弥陀さまのお育てに授かっています。

おかげさまで   今日も 南無阿弥陀仏

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言葉の力 ※B級手品師(東奥日報&日常編)ブログのご紹介(2回目)

私のテーマは「言葉で伝える」ことです。

本日(2/15付)の東奥日報夕刊(明鏡欄)に私の投稿が掲載されました。

今回は

『「読書の冬」で  人間力高める』です。是非、どうぞ~。

 B級手品師(東奥日報&日常編)

http://btejina.hatenadiary.com/

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善人(歎異抄第3条)とは(その2)

 善人(歎異抄第3条)について、「世界大百科事典 第2版(悪人正機)」で分かりやすく説明されています。下記抜粋します。

悪人正機(あくにんしょうき)

浄土真宗の開祖親鸞の教えの特徴をあらわす言葉。悪人こそが阿弥陀仏の救いの主対象であること。ここにいう悪人とは,武士・商人・漁夫など特定の社会階層,あるいは道徳上・法律上の背徳違法者を指すのではない。

宗教的立場,すなわち仏の前に自己を直視するとき,あらゆる自己の行為,さらにはその存在自体すらも悪であるとの認識をいうのである。もともと阿弥陀仏の本願は,あらゆる人を救済の対象とし善悪の差別はない。しかし善人は自己の能力でもってさとりを開こうとするから,仏に全面的に頼る心が薄い。

【世界大百科事典 第2版より】

 

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「善人は自己の能力でもってさとりを開こうとするから,仏に全面的に頼る心が薄い。」とあります。換言しますと、ここでいう善人は、「自分に自信がある人」といえます。ですので、阿弥陀さまに頼らなくても、自分の力でさとりを開けると思っている人のことでした。そういう視点からみますと、この世は「善人さま」だらけですね~。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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