手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

娘からの贈り物

父の日に、娘からもらった贈り物をあろうことか落としてしまいました。7ヶ月と非常に短い期間の所持でした。決して高価なものではありませんが、娘の気持ちを想うと、とても心苦しいです(泣)。私にとって、その贈り物は娘の心が込められたかけがえのないモノでした。

南無阿弥陀仏も然り。

南無阿弥陀仏には、阿弥陀さまの私に対する強い思いが込められています。ただの6文字ではありません。願行具足の南無阿弥陀仏なのです。話しは戻りますが、それにしましても、諦めるにも諦められません。

娘へ、ゴメン。

 おかげさまで  今日も 南無阿弥陀仏

 

1/21追記

なんと、とあるところから、出てきました(嬉)

 

最優先すべきこと

隣から牡丹餅もらって 、この小豆はどこで取れた 、この砂糖はどこでと 、いつまでもせんさくをしていると 、頂いた餅が固くなってしまうから 、牡丹餅たべながら 、生産地を聞いても 、おそくはないでしょう 。念仏はなれて理に走れば 、もの知りになるだけでしょう 。称え乍ら御いわれを聞くのです 。

【松並松五郎 念佛語録  土井紀明 編  響流書房】

 

 まずは、いま・ここで・私が、南無阿弥陀仏のはたらきに気づくことが大事ということです。肝に銘じたい、ところです。

当たり前ですが、固い餅は食べれたものではありません(笑)

阿弥陀さまと共に歩む人生

私の思うようにさせておいて 、南無阿弥陀仏が後からついてござる 。それが証拠に 、南無は阿弥陀仏の上にある 。私はあやつり人形である 。歩き初めの子供の後から 、親は後から支えて歩かせる 。子供は自分が歩いたと思って喜ぶ 。親も亦喜んでヨイヨイしたと手をたたいて喜ぶ 。子供は自分一人で歩いたと思って亦手をたたいて喜ぶ 。実は親の手が 、うしろからかかえている 。親は子供の手柄にして 、親子が喜ぶ。

【松並松五郎 念佛語録  土井紀明 編  響流書房】

 

一心同体 南無阿弥陀仏ですね。

阿弥陀さまの慈悲につつまれて生かされている人生、そのことに気づきがあるか否か、とても大事なところです。個人的に、あやつり人形といいますと、「言いなり」という意味で捉えますので、あまりよいイメージはありません。しかしながら、それは、あやつる人によって全く意味が違ってきます。阿弥陀さまにあやつられるなんて、ホント光栄なことです。

垣根がない関係

あるお方 「海と陸 」との間に何がある 」 。 「と 」があるでないかと大笑い 。 「私と仏 」の間に 「と 」がある 。その 「と 」がはずれる 。南無阿弥陀仏

【松並松五郎 念佛語録  土井紀明 編  響流書房】

 

うまくいったものです。一心同体 南無阿弥陀仏ですね。この文章を読んでいますと、妙好人 才市さんの次の詩と重なります。

「わしのこころは、あなたのこころ、あなたのこころが、わたしのこころ。わしになるのが、あなたのこころ。」

 ※あなたとは、阿弥陀さんのことですね。

 

私の好きな時間

ジョギングができないこの季節、私の日課は雪かきです。そこそこ雪かきエリアがある私としましては、結構長時間、雪かきタイムを楽しでいます。それは、ジョギングと同様、阿弥陀さまと1対1で向き合えるからです。こんなに楽しい時間はありません。ですので、ある程度の積雪は全く問題ありません。春が来るまで、しばらく、雪かきタイムを楽しみます。

雪かきしながら  今日も  南無阿弥陀仏

本当の意味でめでたい人とは

門松は冥土の旅の一里塚
めでたくもあり めでたくもなし

新年を迎え、早2週間が経ちました。これは、1月になると必ず思い出す一休の句です。新年を迎え、本当の意味でめでたいといえる人は果たしてどれくらいいるでしょうか。ここで、(新年を迎えて)本当にめでたいと言い切れる人というのは、「生きること」について既に決着がついている人のこと。つまり、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人のことだ、と私は解釈します。多分、一休さんもそのように訴えたかったのだろう、と勝手に想像しています。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



一休さん(アニメ)より

南無阿弥陀仏

 日本の古い時代のことを書いた『古事記』を読んでいると、昔の人は、帰依の依の字に「ことよさせたまふ」という仮名を付けて読んでおります。ことよさせたまふとは、寄り、任す、ことの敬語であります。我々の仏に帰依するという南無の心は、仏が我々にことよさせ給う心である。衆生が仏によりかかりよりたのむ、これは一応のことで、こちらが頼む心がどうして起ったかというと、仏がこちらに現われて、ことよさせて下さるのだ。仏の前に頭の下がらんこの者が、頭が下がるようになるということが、仏の徳がこちらをして下げしめ給うのだ。信ずることの出来ん疑い深い者、計らいの多い者が、すっかり信ぜられて、任せられるということは、大きな仏の徳がこちらにことよさせ給い、現れて下さるからである。そうなると、この南無の二字は頼む機である。この機は仏の真実から与えて下さる機である。今日は寒いというて火鉢に寄る。火鉢の側へ寄るのは自分であるが、誰が寄らしめるのか。火だ。火の徳に呼びつけられるのだ。火鉢の所へゆく心を起こさしめるのは火鉢の火だ。その火の心で火にあたろうという心が起こるのだ。火鉢には火が燃えておるという徳と、人を寄せつけるという徳がある。阿弥陀仏の光明無量の徳も火鉢の火の徳と同じである。
 光明無量・寿命無量の仏に帰命する、南無するという心の相は、火鉢の側へ寄りつく心の相である。この阿弥陀仏の徳が我々を寄せつけて下さる。阿弥陀仏という仏が、私の胸に現われて下さる時に南無になって現われる。その南無になって現われて下さる奥には、阿弥陀仏がちゃんといらっしゃる。南無阿弥陀仏という、これは衆生の心に現われて下さった仏の名である。単に衆生を離れて仏があるなら、それは阿弥陀仏であろう。その阿弥陀仏が我が仏になって拝まれ給う時に、南無阿弥陀仏となる。

                (略)
 清沢(満之)先生が、
信ずるといふことと、如来といふことと二つの事柄があります。この二つの事柄は丸で別々のことの様にもありますが、私にありてはさうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。


とおっしゃった。我々の方からいえば仏を信ずるという、仏の方からいえば助ける如来と、信ずる衆生の心と一体である。それを機法一体という。頼む機と、助け給う仏とが一体になる。そこに南無阿弥陀仏と我等の口に現われ給うのである。
正信偈の講話 暁烏 敏 法蔵館 P54〜P56より】


清沢満之
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20160515
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20150125



阿弥陀仏の光明無量の徳を「火鉢の火の喩え」で分かり易く教えて頂きました。
南無阿弥陀仏」は単なる文字や呪文なんかではありません。わたしの思いや想像をはるかに超えた深い意味合いといいますか、はたらきが込められています。この文章を読んでいましてあらためてそのように思いました。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏