手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

「私の生死問題」について考えるきっかけとなった出来事

 

 夜寝ていると、障子越しに彼が現れた。悲しんでいるのでもなく、かといって笑っているのでもない表情でこちらをジィッと見ている。最後の別れに来てくれたのだろうか

 今から思えば、夢を見ていたのかもしれないが、その彼の表情は40年経った今でも鮮明に覚えている。その彼とは、橋本君である。一つ年下で、地元ソフトボールチームの仲間であった。

 私が小学6年生であったある日、チームの親睦会で訪れたレジャー施設のジャングル風呂で、彼は急に倒れそのまま帰らぬ人となった。その夜、彼の自宅で対面した彼の表情はとても穏やかで今にも目を覚ますような気がした。彼が眠るすぐそばで、わが子を見つめる母親の沈痛な姿は今でも忘れることができない。

 「人って死ぬんだ」と、生まれて初めて身近な人の死に直面して動揺した。彼の早逝は、私が今後の人生を歩んでいく上で、「私の生死問題」について深く考えさせる大きな出来事となった。

【手品師 投稿文】

 

「不思議な体験」というテーマに投稿しました(新聞投稿)。不採用でしたので、当ブログで公開いたします。加齢に伴い、死を身近に感じるシーンが増えました。「あっ」という間の人生です。「私の生死問題」について、今一度じっくり考えてみたいものです。

 

 

とても身近な阿弥陀さま

 

子の母をおもふがごとくにて

 衆生仏(しゅじょうぶつ)を憶(おく)すれば

 現前当来(げんぜんとうらい)とほからず

   如来を拝見うたがわず

                (浄土和讃)

 

〈現代語訳〉

母親の愛情が注がれて子どもが母親を懐(おも)い慕うように、如来の慈悲が受けいれられて衆生が阿弥陀仏の本願を信ずる身になればこの世においても、あるいは将来浄土に生まれても、如来は遠くかけ離れた存在ではなく、さまざまな形となって拝見できることは疑う余地もありません。

【浄土和讃を読む 白川晴顕  本願寺出版社 P 342より】

 

「南無阿弥陀仏のはたらき」を知らされた人は、生きてよし死んでよし、ということですね。念仏生活(阿弥陀さまの温もりを感じながら生活していく)以上に安心した生活はありません。南無阿弥陀仏があって本当によかったと思う日々です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀

 

 

死に順番はありませんが・・・

 

 死に順番があれば、どうですかね。次は、私が死ぬ番と明確になることで、戦々恐々とした生活(死刑宣告を受けたような)になるかもしれません。あるいは、自分の死について、よく考えるようになるかもしれません。

 残念かどうかは置いておきまして、死に順番はありません。若い人でも死んでいかなければならない現状があります。いずれにしましても、遅かれ早かれ、死んでいかなければならない人の世(人間の世界)です。よくよく「私の生死問題」について考えて生きたい、と思います。

 

 

一大問題(死んだらどこへ逝くか?)

 

―  五木さんは、自分なりの死生観を持つ、それが大事だと、本の中でお書きになっていらっしゃいますけれど、これはどういうことですか。

 

五木: 

結局、人間は、老いて、そしてその後はこの世からいなくなっていくわけですから、そのことをただ漫然と考えていると、すごく虚(むな)しい感じがしませんか。いずれ終わるのだけれど、終わったらどこへ行くのか、そして、どのようになるのか、まったくその覚悟のないままに死を迎えるのは、非常に不安だし、気持ちの上でも落ち着かないと思います。

 いろんなことをやってきたけれど、すべてそれも、死という最後の場面で終わってしまうのかという、はかなさ、あるいは虚しさみたいなものを感じないで人生を締めくくることができないか、贅沢な話だけれど、それを考えることが大事だということです。

 

―  まさに生きるほうの「生き方」ではなくて、亡くなるほうの「逝き方」、これも大事だということですね。

【人生百年時代の歩き方 五木寛之 NHK出版 P90、P91より】

 

自分の「逝き方」を明確に分かっている(知らされている)人の「生き方」は、とても充実しているでしょう。自分の「逝き方」に留意していくことは、人生を歩む上で、とても大事なことだと思います。

 

 

阿弥陀さまと私

 

 かなり前ですが、阿弥陀さまに救われたという人の映像(ビデオ)を見たことがあります。病床に伏せる方が、「往生スッキリ、往生ハッキリ」という言葉を繰り返している姿でした。とても衝撃的でした。阿弥陀さまに救われると、「こうなるのだな!」と。

 ただ思うのは、そのよろこび(阿弥陀さまに救われた)の表現は、人それぞれだということです。阿弥陀さまに救われると、その方のように「往生スッキリ、往生ハッキリ」というような言葉が出てこないとダメなんだぁー、と思い込んでしまいがちです。私がそうでしたから。固定観念、恐るべし。

 あくまでも、私の御相手は「阿弥陀さま」です。直に、阿弥陀さまに向き合いたい、ものです。他人の(阿弥陀さまに)救われたよろこびの表現にとらわれている時間はありません。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

 

人生100年時代といわれますが・・・

 

 人生100年時代といわれます。ただそれは、世間一般にいわれていることでありまして、自分自身に落とし込んだ場合はいかがでしょうか。

 私も人生折り返し地点を越えています。以前より、死を意識する機会が増えました。多分それは、身近な人の死を多く経験するようになったからなのでしょう。日頃、お悔やみ欄をみていますと、同世代(40、50代)で亡くなっている人が現実にいる、ことに目がいきます。死は他人事と思っていましたが、いよいよ現実味を帯びてきました。

 今一度、生きる意味について真剣に考えてみたい、ものです。

 

 

「南無阿弥陀仏」があって本当によかったー

 

 次々と「馴染みの有名人」の訃報が報じられています。着実に時代は移り変わっています。昭和という時代も遠い過去のような。

 私も歳をとったものだなー、と思うこの頃です。身近な人の死に際し、私の番も近いなあー、と思ったり。死に順番はありませんが、高齢になればなるほど、死の確率は上がります。

 そんな中、(私が)阿弥陀さまに出遇えていることは、とても心強いです。「やはり、南無阿弥陀仏しかないなぁ~」と、ここ最近よく思うのです。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏