手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)のはたらき

 

弥陀の回向成就して

 往相・還相ふたつなり

 これらの回向によりてこそ

 心行ともにえしむなれ

(『註釈版』五八四頁 『真宗聖典』四九二頁)

 

 「弥陀の回向」というのは、如来さまの方から私たち衆生の方に来ているはたらきのことです。それは私たちのはたらきに先立つはたらきですから他力回向といいます。もともと回向という言葉は、他力回向の意味ではなく、むしろ私たちが積んだ善根功徳を仏さまの方へさし向けることを意味していました。しかし親鸞聖人は、衆生からはじまるそういう行い以前に、如来さまの方から私たちに来てくださっている根源的なはたらきがあることに気づかれ、それを他力回向と言われたのです。この和讃の「弥陀の回向」とはその他力回向のことであって、私たちが自分で如来さまに向かって何かをするということではありません。私たちがする前に、阿弥陀さまが私たちにすでにしてくださっているのです。 

 世界の中にまず私たちがいて、次に阿弥陀さまが出てくると思うのは自力の発想です。しかしたいていの人はそう思っているようです。世界には私たちが最初にいるのだ、世界の一番始めは自分だというのが凡夫の考え方です。そんな人もいるというのではなく、それが凡夫存在に共通の発想なのです。だれもが、この地上において一番大事なのはこの自分だと思っています。自分のいる所こそ世界の中心だという考えは、凡夫という存在にしみついているのです。 

【本当の言葉に救われる 大峯顯 百華苑 P40、P41より】

 

自分中心の世界から、阿弥陀さまを主とした世界への転換。そこには大安心があります。環境が大きく変わろうが変わるまいが、根底に安心があります。個人的に、今月は目まぐるしく忙しい時期ですが、阿弥陀さまがそばについていると思うと落ち着きます。南無阿弥陀仏のなせる業(わざ)なのでしょう。(私はといえば)ただ南無阿弥陀仏とお念仏を称える感謝の日々です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

「思い込み」は禁物だが、「思い入れ」は大事

 

硤合 憲三(そあい けんそう)氏のコメント

【ノーベル賞座談会(読売新聞:2026年10月9日付)より】

 

 このフレーズに触れて、『南無阿弥陀仏について』にも言えることだ、と思いました。

「研究」の部分を『南無阿弥陀仏(のはたらき)』に置き換えるといかがでしょうか。

 

『南無阿弥陀仏(のはたらき)』に「思い込み」は禁物だが、「思い入れ」は非常に大事だ。

 そもそも「(阿弥陀さまに対する)思い入れ」つまり、南無阿弥陀仏に興味や関心がなければ、「(私の勝手な)思い込み」には行き着きません。私が、南無阿弥陀仏に思い入れを持つ(興味や関心を持つ)ことはとても大事だ、と思います。そのように(私が南無阿弥陀仏に)、思い入れを持って(持たされて)いるのもすべて阿弥陀さまの一人はたらき、です。

 留意したいのは、『南無阿弥陀仏への思い入れ』を語る上で、「私が」と我(が)が先にでてしまう「思い込み」は禁物である、という点です。あくまでも、主語は『阿弥陀さま』であって私ではありません。

 おかげさまで スポーツの日も 南無阿弥陀仏

 

阿弥陀さまに感謝の日々

 

 「みやこうた」を楽しんでいます。「みやこうた」は、青森生まれの「3・8・5」の16文字で作る世界一短い短詩です。「3(み)・8(や)・5(こ)」という語呂合わせから「み・や・こ」うた、と名付けられました。ちなみに、俳句や川柳は「5・7・5」の17文字です。「みやこうた」については、下記リンク(地元新聞に投稿)を参照ください。

 今回、南無阿弥陀仏について詩にしました。イラストは、「花咲くみやこうたの会🌸」の絵心のある方に描いていただきました。 感動しました!

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

 

阿弥陀さまの直説を聞く

 

 安楽寺の住職の説教を聴聞した時のことを、浅原才市が自分と自分で問答しているノートがあります。「才市」、「ヘイ」と、自分で返事するんですね。「今、説教したのは誰じゃ」といって、「安楽寺の和上(わじょう)でございます」と答えて、「そうじゃあるまい」と自分で自分にいうんですね。そうして続けていって、「蓮如さんでございます」。「そうじゃあるまい」。「弥陀の直説(じきせつ)、南無阿弥陀仏であります」といっています。

 説教というものはやはり人間の言葉です。人間がいっている言葉です。安楽寺のご住職も人間です。けれども、そのご住職の口を通して出てきている言葉というものは南無阿弥陀仏なんです。時間空間を超えた仏そのものの語りなんですね。だから住職が語っていることを聞いただけでは説教を聞いたことにはならないんです。その住職の言葉を通して響いている、仏そのもののじきじきの語りを聞かなきゃならない。弥陀の直説、阿弥陀さまが直接、今日はこの本堂で語ってくれたという、そういうことを才市はいっている。その言葉はどういう言葉か。「おまえを必ず救うぞ」という言葉です。「おまえを必ず救うぞ」という阿弥陀の言葉、それを住職が自分の口を通していってくれたんだ、そういうぐあいに才市は書き記しているわけです。

 浅原才市には時間空間をフィと超える経験があったようです。時間空間の中にいながらそれを超えた世界、時間空間というものをもたない世界、阿弥陀がいつも現在しているその世界というものに、つまり石見の国の安楽寺の本堂という時間空間の中の一点で、時間空間などはない、阿弥陀の現在の声というものに出遇ったわけです。それが説教を聞くということなのです。またそういう説教でないといけないのでしょう。だから安楽寺のご住職もありがたいわけです。だって弥陀の直説だと才市にいわしめるような、そういうお説教をしたのですから。

 浄土真宗の根本はいうまでもなく、弥陀の本願を信じるということですけれども、弥陀の本願を信じるということは、阿弥陀仏の名号を信じ、それを称えるという、そのことをほかにして何もないわけです。「私は信じておりますけれども、称えません」というようなことは信ではないんですね。

【今日の宗教の可能性 大峯 顕 百華苑 P98、P99より】

 

浄土真宗の根本は、「阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を信じ、それ(南無阿弥陀仏)を称える」ただそれだけだ、と明示されています。「あなたを必ず救います!(南無阿弥陀仏)」という阿弥陀さまの直説を「ありがとうございます!(南無阿弥陀仏)」と素直に受けとらせていただきたい、ものです。阿弥陀さまと私は、「南無阿弥陀仏」を介して対話をしているようなものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

先手の阿弥陀さま

 

こっちが手を合わす先に、如来さまの方が先に手を合わして、どうか念仏申してくれよ、どうか助けさせてくれよ、どうか救われた人になってくれよ、と願いをかけられておるのであります。その願いを聞くことによって知らしてもらったら、なれるとかなれないとかいうことを問題にする以前に、すなおに受けさせてもらうばかりであります。それが合掌の形にあらわれ、称名(しょうみょう)の声にあらわれます。助けてほしい、救われたいと私が思う以前に、助けるぞよ救うぞよ心配しなくてもよいというお言葉がこの私にかけられてあったのでありますから、こちらはすべて負けです。なる用事もする用事もありません。私が願う先に、どうかこのおれに救わせてくれよと、この私の上にはたらいて願って下されてあることを知らせてもらったら、どうしようもないことであります。如来の願い通りに救われてゆくよりほかにはないではありませんか。これを教えて下されたのが親鸞聖人の教えであります。

【真宗安心  加茂仰順  百華苑  P336、P337より】

 

私の計らいは、不要といいますか邪魔でしかありません。阿弥陀さまが「あなたを助ける、救う」と仰せですので、私は、「ありがとうございます」と素直に応えればよいのです。私は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるだけでした。それしかできません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

遅かれ早かれ茹で上がる

  

 妙好人おそのさんの「団子汁の話」が好きです。熱湯の中で、茹でられている沢山の団子。遅かれ早かれ、すべての団子が茹で上がり鍋の上に浮いてきます。そして、お玉で掬い取られます。団子といっても、大きい団子、小さい団子、形が崩れた団子など様々です。団子は、私たちのことでそれぞれ個性があります、煮え上がれば(機が熟せば)、お玉で掬い(阿弥陀さまに救い)取られます。私なりに、こんな感じで解釈しています。

 (阿弥陀さまの)南無阿弥陀仏のはたらきは一人一人、それぞれにはたらいています。このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされていない人も遅かれ早かれ、救われます。阿弥陀さまが、そう言われているのですから。「仏語に虚妄(こもう) なし」といわれますように、仏さまにウソという言葉はありません。阿弥陀さまは、「心配しないでください。あなたを必ず救います」と誓っておられます。ですので、受け手の私(たち)は、素直に「本当でした。ありがとうございました」と念仏を称えればそれでよいのです。

 おかげさまで お盆も 南無阿弥陀仏

 

 

tarou310.hatenablog.com

壮大なドラマ by 阿弥陀さま

  

 阿弥陀さまは、私を救うための台本を考えました。舞台は地球。主人公は私。父親役はH吉。母親役はY子。弟役はとん。親戚・友人・先輩・後輩・隣人・学校の先生・同僚・ペットなど数え切れないほどのキャストが、主人公である私を盛り立てます。そして、Key(キー)となる脇役の一人に教祖さまがいました。結果的に、私においては浄土真宗の教えに出遇うきっかけとなった名脇役でした(人によっては色々あるかと思いますが)。

 阿弥陀さま演出の壮大なドラマによって、私が南無阿弥陀仏の身になる。実に、緻密に計算されています。そのドラマは、一人一人それぞれに、その人に合った演出でこのいまも展開されています。私も、ある人においては、脇役として盛り立て役になっているのかもしれません。そんなことをアレコレ考えて楽しんでいます。あくまでも私の想像ですので突っ込まないでください(笑)。そのカラクリは、死んで仏になれば分かるということですので、その時の楽しみとしてとっておきます。

 おかげさまで お盆も 南無阿弥陀仏