手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

聖教よみの聖教よまず

 いつも思うことですが、お聖教は読みさえすればすぐわかるというものじゃないんですね。お聖教にこう書いてあると言っても、書かれてあることを読む私たちの側にいろいろと問題があるわけです。つまり、心にみな我見をもってますから、お聖教の言葉の「無我」を知らず知らずに自分の我によってねぢ曲げて、自分に都合のいいように理解してしまう傾向がたえずあるわけです。これは、どんなに素朴な人でもどんなの無邪気な人でもやはりそれがあります。だから「お聖教に書いてある」と言ってもそれだけじゃだめなんです。お聖教は誰にでもすぐ分かるような真理、たとえば誰にでもお月様が同じように見えるような、そんな真理としては、存在しないのです。自分の独断や偏見をはなれて本当に自分を空しくしてお聖教の心をいただくということがなかったら、お聖教はあっても閉じられたものと同じです。
 現代の問題としていえば、聖教の語句を持ち出しさえすれば安心だという考えがどこかにあるということがいちばん恐ろしいと思います。よく聖教を盾にとって「聖教のここにこう書いてある」というふうに言いやすいのですけれども、書いてあると言ったってそれをどのように読んだかが大事でありまして、正しく読むということがなければそれだけでは何もはじまりません。
【『歎異抄』第九条 なごりをしくおもへども 大峯 顕 百華苑 P7、P8より】



聖教よみの聖教よまず(蓮如上人御一代記聞書第95条)という言葉があります。自分でお聖教を読んでいても「信心なし」に読んでいるだけでは、本当にお聖教を読んでいるとはいえない、ということです。言葉の上辺だけを捉えるのではなく言葉の行間を読む、ということが非常に大事ですね。『南無阿弥陀仏』という言葉においても然りです。
南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされて拝読するお聖教はこれまた格別です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



論語読みの論語知らず
『新版 いろは たとゑ 廻双六』(国立国会図書館所蔵)