手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏の人

 やっぱり人間というのは本当に、普通の人がよろしいようです。今度お浄土へ行けるとありがたがって飛び上がっている人がいたらちょっとこれは要注意ですね(笑)。凡夫は、お浄土に参れると聞かされても何かあまり嬉しくないけれども、それでは心配しているのかというと、もちろん心配はしてません。死ぬ時になったら渋々死ぬのが凡夫です。それだって往生浄土は決まっています。要するに、煩悩具足の凡夫は如来にまかせて死ぬだけでよろしい、という一番私どものような凡夫にふさわしい道、それしか歩けないような道を親鸞聖人は念仏の道だと教えてくださったのですね。
 そういう念仏の道が無碍の一道です。もちろん、すべての念仏者が渋々という心境でなければならないということはありません。しかし、無理に喜んでお浄土へ行かなければならないということだったら、それは障りになっている生です。
【『歎異抄』第七条・第八条 無礙の一道 大峯 顕 百華苑 P23、P24より】



ここでもありますように、
「要するに、煩悩具足の凡夫は如来にまかせて死ぬだけでよろしい」とあります。
つまり、私はといいますと阿弥陀さまにおまかせ、ただそれだけなのでした。阿弥陀さまのお救いの前では、「私の・・・」は無用なのです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



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捕らぬ狸の皮算用
【読み】とらぬたぬきのかわざんよう
【意味】捕らぬ狸の皮算用とは、手に入るかどうかもわからない不確かなものに期待をかけて、ああだこうだと計画をねることのたとえ。
※故事ことわざ辞典より