手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2013-08-01から1ヶ月間の記事一覧

仏法聴聞とはどういうことか

昔のお説教ではよく、お説法を聞くときは自分は重症の病人になっているつもりで聞きなさいというふうに言われたことがあります。足も立たない、腰も立たないままベッドに縛り付けられて死ぬ病気にかかっている自分だという気持ちになって仏法を聞かないと、…

如来さまの教えに共鳴した人

信を得た者は、その時から価値観が変わっていきます。今まで自分の都合だけを中心にしてものを考え、行動していた。相変わらず煩悩は湧き起こってくるけれども、そのことを、あさましく、恥ずべきことだと反省するようになってきた。それはすでに如来さまの…

生死即涅槃の消息(信心の人)

『歎異抄』第九条に出てくる親鸞と唯円との有名な問答は、浄土真宗における「生死即涅槃」の経験が鮮烈に語られている場合の一つだと言えます。本当に仏の救いに任せている信心の人は、浄土参りが嬉しくなくとも一向に構わず、嬉しくないままで仏の命に生か…

浄土真宗の信心

命は一つ、仏の命だと仏さまに言われても「それでもこの私が生きている」という我執はなかなか取り去ることはできません。しかし、仏さまの教えのほうが桁外れに強いので、人間の凍りついたこの我執が仏の慈悲によって融かされるときがきっと来ます。 人間の…

先入見や予定観念を捨てる

親鸞聖人の『正信偈』の冒頭は、「帰命無量寿如来」という言葉です。無量寿如来とは阿弥陀仏のことで、その原語はアミターユスで、無限の命という意味です。帰命とはこの大きな命に自分の小さな命を預けて生きるということです。生きているということは、大…

如来よりたまわりたる信心

「諸人伝説の詞」のなかには、法然聖人の「つねのおおせ」として次のような法語が記録されています。 たとへば葦(あし)のしげきいけに十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見へねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどる也…

「南無阿弥陀仏」とは、具現化した如来そのもの

「南無阿弥陀仏」とは、具現化した如来そのもの、「宇宙一切のはたらき」です。そのはたらきを「他力廻向」といいます。そのはたらきをいのちの根底にして、私たちは生かされて生きているのです。その「宇宙万有一切のはたらき」が私たちに無条件で与えられ…