手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏を称えるのは至って自然な流れ

 この個人の私よりもっと大きなものに、この私があらしめられていたんだと知らされること、広大無辺の力の中にある小さな自分の位置を発見すること、それが仏法の本質です。広大無辺な如来様のお力が働いている世界の中に、この私も許されていたということ、この発見が他力回向の信心です。
 そしたら、他力の信心とは別に奇妙なこと、特別なことではなく、むしろ極めて自然で、当たり前のことだと言えるでしょう。我々はみな、限りない宇宙の中に生かされているんであって、自分でこの世へ生まれてこようと思ってきたわけではありません。誰が人間になろうと思って生まれたのでしょうか。誰が男に生まれようと思ったか、女に生まれようと思ったか。気がついたら不思議にも皆そういうふうになっておったわけです。私たちをしてこの世に出さしめた不思議な力がいつでも私たちより先にあるのです。
【『歎異抄』第六条 弟子一人ももたず 大峯 顕 百華苑 P36、P37より】



南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている私は、そのはたらきに気付かせて頂くだけだったのでした。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた証拠が、私の口からこぼれる南無阿弥陀仏のお念仏です。いうならば、南無阿弥陀仏を通して、阿弥陀さまと会話をしているといってよいでしょう。南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまと私の共通語です〜 いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、大事なところです。
仏法ひろまれ 響け 届け・・・・・・
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



一心同体(イメージ)