2013-01-01から1年間の記事一覧
真宗のご安心は、われらにすでにあるもの、潜在的なものが宿善の聞法によって開発と開けるのでなく、本来われにない名号法が如来より廻向廻施とたまわって往生の大益を成ずるのであります。それは煩悩の泥中に咲く蓮華と申せます。 【『安心決定鈔』法話 瓜…
第十八願の行者も第二十願の行者も、ともに他の行をさしおいてお念仏を申されています。念仏の法に遇うている行者であります。 同じようにお念仏に遇いながら、一方は往生決定し、一方は往生不定だと、ちがいが出てくるのは、どうしてでしょうか。それは、他…
まず、超因果について。 世間の法および出世間・聖道門の法は、修因感果(まいた種は自分で刈りとらねばならない)の道理に立つ教えですから、自因自果ということになり、他作自受(甲が酒を飲んで乙が酔う)ということを許しません。 ところが、本願の道は…
『阿弥陀さまの御慈悲の中に生かされていると実感した今』と答辞として書かれた文章に目が留まりました。 南無阿弥陀仏のおはたきを知らされた喜びは、ガッツポーズをして跳び上がるような類ではないように思います。 歓喜の雄叫びをあげるようなよろこびは…
今日の天気予報は、雪です。 わたしは憂鬱になります。 以前、某気象予報士は、「事実だけを伝えるようにしている」とコメントしていました。 雪が降って、困っているひとだけではないからです。 スキー場で働く人にとっては、雪は大歓迎です。 同じ現象です…
津軽は、雪シーズン到来です。 今後、雪かきに追われる日々がやってきます。 降り積もる雪に対して、降るな、といくら思っても降り積もります。 その現実を受け入れ、せっせと雪かきすることにします。 それが自然の流れです。
数多い宗教の中で浄土真宗の特徴を明らかにするうえで〈聞名の宗教〉という表現があります。それはどういうことかといえば、阿弥陀仏はわたしたちの認識を超えた絶対の真如ですから、煩悩におおわれたわたしたちが眼にすることはできません。その煩悩に明け…
仏は、かかる不思議の名号が、十分に聞えるようなことがないならば、正覚を取らないと誓いたもうたのである。ところが吾々は、己に阿弥陀仏の名号を聞いたのであるから、吾々の往生は己に成就したことは分明である。この「きく」ということは、ただ大まかに…
生まれた時から、水中で生活している魚にとって水の存在は、当たり前のものです。魚にとって、水は切っても切れないものですが、水の存在を知らずに生活しています。知る知恵がありません。 では、人間はどうでしょうか。 性別、年齢、学力、貧富等、ひとそ…
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「念仏して浄土に往生する」といくら知識で知っていても、それは何の役にもたちません。念仏することのなかに、仏の慈悲を感じる信心がなければ、救いにはならないのです。 【真宗Ⅱテキスト 中央仏教学院 通信教育 三年次 学習課程 P91より】 信心肝要です。…
蓮如上人の『御文章』には、「機法一体の南無阿弥陀仏」という表現があります。これは、南無阿弥陀仏の六字のこころを「機法一体」で解釈されるのですが、ここでいう機とは衆生のこと、法とは阿弥陀仏を指すのであり、一体とはその体が一つであるというので…
南無阿弥陀仏は、如来のお名前でもあります。阿弥陀仏は、私たち人間の世界にどのように表われたもうのかというと、それは「南無阿弥陀仏」として自己を表現されているのです。その意味からすれば、名号とは、如来の自己実現の世界であるといってよいでしょ…
先日の報道で、聖火ランナーが手にしたトーチの火が消え、傍にいた警備員がライターで火を点け直したシーンが放映されました。本来であれば、ギリシャのアテネで採火した火種で対応するそうです。 今回のシーンを見て、いろいろな意見があるようですが、いか…
真実はどんなささやかな生活のうえにあらわれても滅ばされない権威を有している。 われらの手につくられたものはみんな滅びます。われら自身も滅びつつあるのです。それをおもうほど、滅びない生命を体現して生きたいと念ぜずにおれません。 真実は如来であ…
−方便の願と三願転入− 「化身土巻」には、阿弥陀仏の第十九願と第二十願がかかげてあります。第十九願は修諸功徳(しゅしょくどく)の願とよばれ、浄土を願う衆生が、もろもろの善根功徳(諸行)によって往生できることが誓われています。また第二十願は植諸…
(インタビュー:大峯 顕 氏) ものを考えるということがいるんですよ すぐに信じなさいと言われたかてな― 仏さんに助けてもらって 極楽浄土に生まれるか、言われたって― 信じなさいって言ったって、そんなもん 簡単に信じられるもんじゃないよ だって、皆、…
(インタビュー:大峯 顕 氏) 宗教って、人間の いちばん大事な問題なんだけどさ かつては、過去の時代にはね、皆、仏教も 日本の国教になった時代があったんだけど まぁ、中世までやね 仏の教えを聞いて、人生を 生きるという、そういう考えが― 日本に定着…
「自身は現に是れ最悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常にしずみ、常に流転して、出離の縁有ること無し」の者が、南無阿弥陀仏の身にさせて頂いても喜ぶ心が続かない、凡夫といわれる所以です。 ますます、ありがたいと感じるのです。南無阿弥陀仏。 二祖対面…
血で血を洗う、ということばがあります。その言葉を聞いてふと思ったことです。 自分のはからいを、そのはからいをもってして消し去ることはできません。自分のはからいを超越したおはからいに依らねばなりません。 ※血で血を洗う 【読み】 ちでちをあらう …
言葉でなければ導かれませんが、言葉を離れなければ南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂くことはできません。
昔のお説教ではよく、お説法を聞くときは自分は重症の病人になっているつもりで聞きなさいというふうに言われたことがあります。足も立たない、腰も立たないままベッドに縛り付けられて死ぬ病気にかかっている自分だという気持ちになって仏法を聞かないと、…
信を得た者は、その時から価値観が変わっていきます。今まで自分の都合だけを中心にしてものを考え、行動していた。相変わらず煩悩は湧き起こってくるけれども、そのことを、あさましく、恥ずべきことだと反省するようになってきた。それはすでに如来さまの…
『歎異抄』第九条に出てくる親鸞と唯円との有名な問答は、浄土真宗における「生死即涅槃」の経験が鮮烈に語られている場合の一つだと言えます。本当に仏の救いに任せている信心の人は、浄土参りが嬉しくなくとも一向に構わず、嬉しくないままで仏の命に生か…
命は一つ、仏の命だと仏さまに言われても「それでもこの私が生きている」という我執はなかなか取り去ることはできません。しかし、仏さまの教えのほうが桁外れに強いので、人間の凍りついたこの我執が仏の慈悲によって融かされるときがきっと来ます。 人間の…
親鸞聖人の『正信偈』の冒頭は、「帰命無量寿如来」という言葉です。無量寿如来とは阿弥陀仏のことで、その原語はアミターユスで、無限の命という意味です。帰命とはこの大きな命に自分の小さな命を預けて生きるということです。生きているということは、大…
「諸人伝説の詞」のなかには、法然聖人の「つねのおおせ」として次のような法語が記録されています。 たとへば葦(あし)のしげきいけに十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見へねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどる也…
「南無阿弥陀仏」とは、具現化した如来そのもの、「宇宙一切のはたらき」です。そのはたらきを「他力廻向」といいます。そのはたらきをいのちの根底にして、私たちは生かされて生きているのです。その「宇宙万有一切のはたらき」が私たちに無条件で与えられ…