手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2011-03-01から1ヶ月間の記事一覧

阿弥陀さまが、わたしにあわせてくださる

わたしからあわせるのではなく 阿弥陀さまが、わたしにあわせてくださるのです。 ですので、そのままおまかせとなるわけです。 なんと、気楽なことでしょう なんと、ありがたいことでしょう なむあみだぶつ

なんと(南斗)水鳥拳のレイ

北斗の拳より

他力回向の信 (本願力回向の信)

浄土真宗の「信心」とは、私が信じる心ではなく、「阿弥陀仏の救いのはたらきを、疑い無く受け容れた心」のことを言います。 例えば、赤ちゃんは、お母さんを信じて抱かれているのでしょうか。信じるとか疑うとかいうことを超えて、まかせきっているのです。…

赤ちゃん

仏さまの願いを聞く

浄土真宗では、私の願いを叶えてもらうのではなく、仏さまの願いを聞くのです。それによって、自己中心の心から離れられない私に気づかされると同時に、私が本当の人間として生きる道が見えてくるのです。 【高校生からの仏教入門 釈尊から親鸞聖人へ 小池秀…

本願力

「私の願い」は、自己中心的で、自己の欲望を満たす方向のものがほとんどです。それに対して、「仏の願い」は自己中心の心を離れた「智恵と慈悲」の世界から出てきた願いであり、万人の救済を願う真実の願いです。これを本願と言います。 そして、ただ願って…

念仏を称えるということ

「私から仏」から「仏から私」 ところで、この念仏は、たくさん称えてその見返りとして救いが与えられる、というものではありません。 念仏を称えるということは、必ず救うという仏さまの願い(本願)を受け容れている姿であり、仏さまの救いのはたらきに包…

100%他力

一般仏教では、100%自力か100%他力かではなく、聖道門でも他力の部分を認め、浄土門でも自力の部分を認めます。 ただ、浄土真宗は、100%他力(阿弥陀仏の本願力)です。【高校生からの仏教入門 釈尊から親鸞聖人へ 小池 秀章 本願寺出版社 P122…

勇気100% (忍たま乱太郎の主題歌)

仏さまのはたらきを対象化して捉えようとすると・・・

普通一般に「信じる」とか「疑う」と言いますと、まず自分がいて、その自分の前にある、物であったり、心であったり、つまり何らかの対象となるものを「信じる」とか「疑う」ということになります。このような見方で「本願を信じる・疑う」というと、「本願…

ほめたたえずにはおれない

称える私自身は愚かであっても、阿弥陀さまのお名前が他の人に聞こえることは、知らず知らずのうちに、阿弥陀さまのお徳が広まっていくことになります。 「象さんだ!」と言った幼子は、誰かに聞かせようとして言ったのではなく、思わず言ったのです。けれど…

象さんだ!

方向が逆さま

私たちの普段の生活は、何らかの情報や説明書を自ら理解し、それに基づいて行動し、それなりの結果を得るというパターンで成り立っています。 例えば、電車の時刻表を見て、目的地に予定の時間に到着するとか、商品の広告を見て物を買うとか、私たちは、まず…

阿弥陀さまが中心

「間違いない」は私の心境にあるのではなく、阿弥陀さまにあるのです。(P81) 【ひらがな真宗 森田真円 本願寺出版社より】

自分はあてにならない

過去に有り難い気持ちになって、「ああいう気持ちになったのだから、もう大丈夫だ」と自分をたよりにしていても役に立ちません。(P84) 【ひらがな真宗 森田真円 本願寺出版社より】

自分の頭でコネクリ回しても意味はありません

将来に何らかの信心を得た状態になることを想定して「今はダメだ」と思うのなら、「たった今、ここで」の阿弥陀さまの救いに目覚められないでしょう。(P84) 【ひらがな真宗 森田真円 本願寺出版社より】

このいまのお救いです

自分が何かを信じ、自分で何かを積み重ねて結果を得たという考えが打ち消されてこそ、阿弥陀さまのお慈悲の世界です。(P85) 【ひらがな真宗 森田真円 本願寺出版社より】

祈るのではありません

※ 祈っているユリア (北斗の拳より)⇒ http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20101117#1289952878 (テレサ編)

いつも一緒

対面というと、まだ相手と距離があります。 南無阿弥陀仏と一心同体。いつも一緒。これです。

心配ご無用

対面ならまだマシですね。 背中を向けて逃げ回っているのが、この私。 でも、心配はいりません。 逃げ惑う私めがけて、とびこんで下されるのですから。

大安心

死ぬのはもちろん恐いですし、まだまだ生きていたいです。 でも、縁あってこの世を去らざる負えない状況になったとしても、南無阿弥陀仏の身とさせて頂くと、なぜか安心なのです。

阿弥陀さまは、片時も忘れない

最近、日常生活に追われて、南無阿弥陀仏を忘れがちです。 でも、阿弥陀さまは、この今も南無阿弥陀仏となって寄り添っておられます。 大慈悲の仏さまです。